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友情が終わり ヒップホップ東西抗争は始まった

1993年、ブルックリンのラッパーであるビギーは、仕事でロサンゼルスを訪れていた際に、地元のドラッグディーラーを介してトゥパックと出会った。ビギーは仲間と共にトゥパックの自宅に招かれ、デカいフリーザーバッグ満杯に入った、色鮮やかな葉っぱをトゥパックとシェアした。
Image by Lia Kantrowitz

Image byLia Kantrowitz for VICE.

ふたりの偉大なラッパーの射殺事件。20年前には、2パックこと、トゥパック・シャクール(Tupac Shakur)が、そして19年前にはビギー(Biggie)こと、ノトーリアス・B.I.G.(Notorious B.I.G.)が銃によってこの世を去った。この秋、元『LA Weekly』の音楽エディターであるベン・ウェストフ(Ben Westhoff)は、90年代の西海岸ギャングスタ・ラップ・シーンをディープに紐解いた『Original Gangstas: The Untold Story of Dr. Dre, Eazy-E, Ice Cube, Tupac Shakur, and the Birth of West Coast Rap』を上梓。「西海岸ギャングスタ・ラップの血生臭いストーリー」では、そのベン・ウェストフのインタビューを掲載したが、今回はトゥパックとビギーの固い友情、そしてその決裂から勃発した「東海岸VS西海岸ヒップホップ抗争」の幕開けまでを、本書から抜粋して紹介する。

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1993年、ブルックリンのラッパー、ビギーは、仕事でロサンゼルスを訪れたさい、地元のドラッグディーラーを介してトゥパックと出会った。そしてビギーは仲間と共にトゥパックの自宅に招かれた。「デカいフリーザーバッグに満杯の色鮮やかな葉っぱをトゥパックとシェアしていた」。その場にいたビギーのレーベルでインターンをしていたダン・スモールズ (Dan Smalls) は語る。

トゥパックは、その場の全員がキマると、銃やマシンガンが詰まった緑色のアーミーバッグを取り出し、「銃を手にし、皆で戯れ合いながら庭を駆け回った」とダン・スモールズは続ける。「弾は入っていなかったけどね。俺たちは、走り回ったり、飲んだり、そして吸ったりして楽しんでいた。するとトゥパックはキッチンに向かい、今度はステーキを焼き始めた。他にもフレンチフライだのパンだのKool‑Aid* なんかを用意してくれたね。みんなで食いながら、冗談を言い合ったりしていた。ビギーとトゥパックが本当に仲良くなったのは、そのときからだ」。ビギーは土産にヘネシーを貰ったそうだ。

トゥパックも在籍したヒップホップグループTHE OUTLAWZのメンバーで、長年の友人でもあるE.D.I. ミーン (EDI Mean) もこう回想している。「俺たちは全員、トゥパックはドラッグ漬けのラッパーだと信じていた」

その後、ビギーはカリフォルニアを訪問するたびにトゥパックのカウチで眠り、トゥパックがニューヨークを訪れた際は、白いリムジンでビギー宅に乗り付け、地元の仲間たちとギャンブルに興じていた。そして1993年、マディソン・スクエア・ガーデンで開催された「バドワイザー・スーパーフェス(Budweiser Superfest)」でふたりはフリースタイルを披露。ビギーは、品のないリリックを並べて観客を沸かせた。


マディソン・スクエア・ガーデンに立ったものの、ビギーはブルックリン以外では、まだまだ無名のラッパーだった。それに対してトゥパックは、プラチナディスク* を獲得したラッパーであり、映画俳優であり、真のカリスマだった。若いラッパーたちは、スタジオやホテルに集まり、トゥパックから成功術を教え込まれた。「彼が話し始めると、全員がこの男に釘付けになった。トゥパックからの教えは全て吸収しようとしていた」とE.D.I. ミーンは語る。そんな若いラッパーたちの中でも、特にビギーはトゥパックに可愛がられた。トゥパックのライヴでは、ビギーもパフォーマンスをさせてもらった。トゥパックのラップグループであるTHUG LIFEにも参加させてくれ、とビギーは頼んだくらいだ。「俺がビギーを大きくした。アイツは補佐官のように俺に仕えていた」とトゥパックは自慢気だった。

更に「俺はビギーのラップスタイルにも影響を与えた」と続ける。「俺はよくアイツに『金儲けをしたかったら、女が喜ぶラップをやれ。男のためのラップじゃない。レコードを買うのは女だ。男は、女が欲しいものを欲しがるんだ』といっていた」。その証拠としてトゥパックは、ビギー初期の攻撃的なトラック「Party and Bullshit」と、デビューアルバム『Ready to Die』収録のソフトな「Big Poppa」の違いを挙げている。実際「Big Poppa」には、「彼がワインを買うとき、すぐ後ろから近づき、『趣味は何?』『誰と一緒にいたい?』と尋ねてみる」など、女性を意識した歌詞が綴られていた。

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しかし、『Ready to Die』の発売直前、ビギーは不安を抱えていた。リリース元のBad Boy Recordsは、プロデューザーであるショーン「パフィー」コムズ (Sean “Puffy” Combs) が立ち上げたレーベルだが、スタートしたばかりでキャリアも浅く、運営もスムーズではなかった。そこでビギーは、「トゥパックなら、彼が凄い勢いでキャリアを形成したように、俺のキャリアも押し進めてくれるのではないか」と期待し、トゥパックに自身のマネージメントを依頼した。

「当時のビギーは、1年間同じティンバーランドの服を着ていたよ。一方、トゥパックは、ウォルドルフ=アストリア* に泊まり、ロレックスを買いまくり、マドンナ (Madonna) と付き合っていた」(E.D.I. ミーン)

しかし、トゥパックはマネージメントの依頼を断り、ビギーに告げた。「パフィーと一緒に頑張れ。アイツならオマエをスターにしてくれる」

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映画『ビート・オブ・ダンク』(Above the Rim,1994)の撮影は、ニューヨークだった。撮影での滞在をきっかけにトゥパックは、悪名高きクイーンズのアンダーグラウンドに足を踏み込んだ。彼はこの映画で、ストリートバスケに興じるギャングの構成員、バーディー(Birdie)を演じたが、このキャラクターは、ジェイクス「ハイチアン・ジャック」アグナント (Jacques “Haitian Jack” Agnant) と呼ばれるハイチ出身の実在人物をイメージしていた。彼はプロデューサー兼プロモーターで、既に巨額の富を得ていたが、やはり裏社会の人間であった。

トゥパックは、ある夜マンハッタンのクラブで、ハイチアン・ジャックが女性とシャンパンに囲まれているところを見かけた。彼を紹介してもらったトゥパックは、場所をクイーンズのバーに移して飲み直した。更にハイチアン・ジャックが連れてきたマドンナ、シャバ・ランクス (Shabba Ranks) 、ブジュ・バントン (Buju Banton) などのビッグスターたちを紹介されたという。一方、ハイチアン・ジャックや彼の取り巻きを知っていたビギーは、「ヤツとは距離を置いた方がいい」とトゥパックに警告していたが、彼は耳を貸さなかった。トゥパックは、ハイチアン・ジャックの自信に満ち溢れた態度が気に入っていた。そしてハイチアン・ジャックも、高価なジュエリーやヴェルサーチだらけの金持ちや、地元を支配しているギャングのメンバーなどをトゥパックに紹介した。

「トゥパックは、ニューヨークで勝ち抜いた俺を羨ましがっていた。みんな俺を尊敬しているからな。ヤツは俺みたいになりたかったんだろう」(ハイチアン・ジャック)

1993年11月、トゥパックとハイチアン・ジャックは、Nell’sというマンハッタンのクラブでパーティを開いた。そのときトゥパックは、アヤナ・ジャクソン (Ayanna Jackson) という19歳の女性と出会う。ふたりは親しくなり、ルパーカー・メリディアン・ホテルのスイートに入った。その4日後、彼女は再びトゥパックに会うためホテルに行くが、部屋にはトゥパックだけでなく、ハイチアン・ジャックと、トゥパックのロードマネージャー、チャールズ「マンマン」フラー ( Charles “Man Man” Fuller) 、そして全く知らない男もいた。そして彼らは彼女をレイプし、性行為を強要したとされている。トゥパックは、「他の男たちと入れ替わりでベッドルームを出て、他の部屋で寝ていた」と主張しているが、彼女の通報により、トゥパック、ハイチアン・ジャック、フラーは逮捕された。部屋では銃も発見されたが、のちにトゥパックは、「それはビギーのものだ」と主張している。

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性的虐待、肛門性交の強要、そして銃器不法所持の容疑をかけられたトゥパックは、司法取引に応じ、ジャクソンへの性的暴行について証言を始めた、とされている。トゥパックは否定したが、公判後、「他の男からジャクソンを守るために、何もしなかった自分を責めている」と『VIBE』誌に吐露した。トゥパックとフラーの裁判は、ハイチアン・ジャックの裁判と切り離された。トゥパックと彼の弁護士にとっては、願ってもないチャンスだと思われたが、ハイチアン・ジャックはふたつの軽罪を問われ有罪となるも、服役は逃れた。ハイチアン・ジャックの告げ口を疑ったトゥパックは、ニューヨーク・デイリー・ニュースのレポーターに、「ハイチアン・ジャックにはめられた」と言明した。 ハイチアン・ジャック及びアヤナ・ジャクソンは、これを否定している。

裏社会の人間について発言するのに、メディアを利用するのは賢明ではない。しかし皮肉にも、ハイチアン・ジャックと多くの時間を過ごした結果、トゥパックは「自分は無敵だ」と勘違いするようになっていた。彼は、行きたいところに行き、何千ドルものジュエリーを身につけ、これまで以上に派手に振る舞った。すべての人間から一目置かれている、と考えていた。

しかし、家族と親族を養い、果てしなく続く裁判の弁護士費用を払い続けるうちに、トゥパックの銀行口座は枯渇していった。そこでトゥパックは、パフィーやビギーと親しいリトル・ショーン(Little Shawn)というラッパーの作品へのゲスト参加を決心した。この仕事の依頼は、ハイチアン・ジャックを通して知り合い、リトル・ショーンのマネージャー、ジミー「ヘンチマン」ロズモンド (Jimmy “Henchman” Rosemond)からだった。この仕事のトゥパックへのギャラは7千ドルが予定されていた。

1994年11月30日、トゥパッックは、キマりきった状態で、タイムズスクエアにあるクワッド・レコーディング・スタジオに到着した。彼はボディガードをつけずに3人の仲間と現れたが、ロビーで、軍服を着た3人の知らない男たちと遭遇した。この服装は、ビギーの出身地であるブルックリン・スタイルだったので、トゥパックはこの3人を「ビギーの仲間たち」と思い、気にしなかった。階上からは、ビギーの仲間であるラッパーのリル・シース (Lil’ Cease) が、「ビギーは上で録音してる。パフィーも一緒だ」と叫んでいた。トゥパックは何も疑っていなかった。

しかし、トゥパックたちがエレベーターに乗り込もうとすると、軍服の男たちは9mmの銃を向け、床に伏せるよう3人に命じた。トゥパックは命令に背き、自分の銃を抜こうとしたが撃たれてしまう。殴られ続け、ジュエリーも奪われたトゥパックは、襲撃者たちが立ち去るまで死んだふりをした。ヨロヨロと立ち上がり、エレベーターに乗り、なんとか録音中の部屋に辿り着いた。ドアを開けるとパフィー、ビギー、ヘンチマンが立っていた。連中の顔には驚きと疚しさが滲みでていた、とトゥパックは描写したが、パフィーは、「彼が本当に心配だった。そこには愛情しかなかった」と回想している。

トゥパックは、この事件を単なる強盗とは捉えていなかった。「犯人は、俺に対して怒っているようだった」といい、頭、玉袋を含め5発の銃弾を受けた、と主張した。しかし、自分で撃ったのではないかという疑惑もある。

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この事件の捜査に参加したニューヨーク警察署の元警察官ビル・コートニー (Bill Courtney) は、こう推測している。「トゥパックがニューヨーク・デイリー・ニュースで吐いたハイチアン・ジャックに対するコメントへの報復だろう。名前を出すな、非難するな、というメッセージだ」

そしてヘンチマンも、「盗むためではなく、懲らしめるためだった」と2005年に『VIBE』誌で告白した。(その後、ヘンチマンは、自らが事件の首謀者だ、と名乗り出たが、事実は定かでない)

パフィー、ビギー、ハイチアン・ジャックは、この件への関与を否定した。ハイチアン・ジャックは、2007年、別件で有罪となり、ハイチに強制送還されている。

1994年12月1日、ニューヨーク市の法廷に、包帯を巻き、車椅子で現れたトゥパックは、アヤナ・ジャクソンへの性的暴行で有罪となったが、肛門性交の強要、銃器不法所持容疑については罪を問われなかった。1年半から4年半の禁固刑、保釈金は300万ドル。

保釈金を集められなかったトゥパックは刑期のほとんどをニューヨーク州アップステートにあるクリントン・コレクショナル・ファシリティ刑務所を過ごした。彼のサードアルバム『Me Against the World』は、彼の服役後すぐにリリースされた。音楽業界に疲れていたトゥパックは、今作をキャリア最後のアルバムにしようと考えていた。しかし、ある噂が耳に入ると、彼の音楽への情熱は再び燃え始める。彼が信頼する筋から耳にした噂だった。

「ビギーは、クワッドスタジオの襲撃について事前に知っていた」

「アイツが今こうしていられるのも、すべて俺のおかげだ。それなのに俺が殺されそうになっても知らん顔していた。もしビギーが仕組んでなかったとしても、誰がやったかくらいはわかるだろ? オマエのホームタウンで俺を撃ったヤツがわからないって? オマエのホームタウンのヤツらだぞ!」

トゥパックは、自分の友達、それも富と名声を勝ち取るために、自分が後押した友達が裏切った、と判断した。

服役中にケイシャ・モリス(Keisha Morris) と結婚したトゥパックは、彼女を通じて「金がない。助けが要る」というメッセージを、悪評絶えないロサンゼルスのレーベル、Death Row Recordsのシュグ・ナイト (Suge Knight) に送っていた。弁護士費用などに加え、彼の母親も家を失うほど追い込まれていた。

「シュグは1万5千ドルを送り、自分の帳簿につけた」とDeath Row Recordsのセキュリティ・ヘッド、レギー・ライト・ジュニア (Reggie Wright Jr.) は語る。トゥパックは大喜びで、「オマエに会いたい」というメッセージを再びシュグに送っている。

同じアメリカとはいえ、ロサンゼルスと、トゥパックが服役するニューヨーク州は遠く離れていた。しかしシュグは、面会に出向いたばかりか、作品リリースを交換条件に、トゥパックを保釈させる、と約束した。Death Row Recordsのデビッド・ケナー (David Kenner) 弁護士は、トゥパック釈放の手続きに取り掛かった。

シュグは、トゥパックと契約しただけでなく、ヒップホップ界で最もパワーがあり、最も手のつけられないファミリーのいち員として迎えたのだ。

1995年8月、シュグは、服役中のトゥパックを再び訪ねた。その直後、シュグはニューヨークに向かい、マディソン・スクエア・ガーデンのパラマウントシアターで開催された『The Source』主催のヒップホップアワードに出席した。Death Row Recordsは、このショーのオープニングに、10万ドルをかけて実物大の独房を制作した。

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Death Row Recordsがリリースした『ビート・オブ・ダンク』(Above the Rim, 199/)のサントラが同アワードのベストサウンドトラック賞に選ばれ、シュグは胸を張ってステージに登った。しかし、ビギーのレーベルであるBad Boyのパフィーに対し、いきなり暴言を吐き始める。パフィーが常にアーティストの作品に、自身のクレジットを載せたがる、とディスりだしたのだ。

「どんなアーティストもアーティストのままでいたいだろう。スターでいたいんだ。レコード、ビデオ、ダンス、なんにでもでしゃばるエグゼクティブ・プロデューサーに思い悩む必要ない。アーティストでいたいヤツはDeath Rowに来ればいい」

会場はシュグへの非難で包まれた。「なぜ、シュグはいきなりあんな暴言を吐いたんだろう?」。Death Row Recordsのラッパー、ネイト・ドッグ(Nate Dogg) は思いあぐねていた。

「実際、かなり最近まで、シュグとパフィーはうまくいっていた。連邦捜査局の追跡を止めるにはどうすべきか、なんて議論も交わしていた。今年の初めには、シュグはラスベガスにある彼のクラブ『662』で、ビギーに公演を依頼している。結局ショーは出来なかったが、それが原因で、仲違いするハズない」

そして気付いた。「原因はトゥパックだ」

シュグは、刑務所のトゥパックに面会したすぐ後に、The Sourceヒップホップアワードに参加した。刑務所でトゥパックは、ビギーへの怒りをシュグに話した。「Bad Boy Records潰しを手伝って欲しい。あいつらは襲撃に関わっている」。レギー・ライト・ジュニアによると、「トゥパックの敵は、自分の敵だ」とシュグはトゥパックに忠誠を誓ったという。

こうして、The Sourceアワードで「東海岸VS西海岸ヒップホップ抗争」の幕が切って落とされた。ここで戦闘ラインが引かれてしまったのだ。ビギーやパフィーが、トゥパックの襲撃について事前に知っていた、という証拠はないが、トゥパックは固くそう信じ、それをシュグにも強く信じさせたのは事実である。これにより、トゥパックとビギーの両者が命を落とした最悪の抗争が始まったのだ。事件は未だに未解決のままである。