コンゴ民主共和国を襲った沈黙の殺戮
アンゴルー村から避難してきた少女のマチェーテによる傷痕が残るうなじ. Adam Desiderio for VICE News.

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コンゴ民主共和国を襲った沈黙の殺戮

コンゴ民主共和国のイトゥリ州ジュグ地区を襲い、同地区の住民数十万人を苦しめた不可解な暴力は、2017年12月に始まった。ときには1日数件のペースで、パンガ、斧、弓、槍で武装した男たちによって、次々と村々が襲われた。国連によると、被害に遭った村は全部で約120。数百もの住民が殺され、数千もの家屋が破壊された。

CHAPTER 1: 壊された日常

コンゴ民主共和国、ブニア。私が彼女たちに医療施設〈Mudzi Maria Health Center〉の外で出会ったのは、イースター前夜だった。空の色は、オレンジから薄紫へと移りゆき、近くのカトリック大聖堂からは聖歌隊の歌声が聴こえる。それから約30分間、聖歌隊は「アレルヤ、アーレルーヤ、アーレーェールゥーゥーヤ」とトリプル・チャントを神に捧げている。〈アレルヤ〉とは〈神を讃えよ〉を意味する古語だ。

私の目の前には、3世代からひとりずつ、合わせて3人の女性が座っている。ジェジンヌ・デウェザ(Jesinne Dhewedza)が最年長だ。この地域で暮らすデウェザと同世代の女性たちと同じく、彼女は、自らの年齢を知らない。ある晩遅くに、彼女の村を襲ったマチェーテ(農作業用の刃物)を携えた男たちに何をされたのか、デウェザは語ろうとしない。あるいは語れないのかもしれない。しかし、シワの刻まれた手は、そのとき何が起きたかを物語っている。2週間前、彼女の指は10本あったが、今は6本しかない。

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神を讃えよ

イレーヌ・マーヴ(Irene Mave)は3人のなかでいちばん若い。ストライプ柄のポロシャツとスカートを着ている彼女の眼はうつろだ。デウェザと違い、彼女は自らの年齢を知っている。襲撃前ならば、6本の指を立てて年齢を教えてくれただろう。彼女は生まれてからずっと、かやぶき屋根の家屋が並ぶ農村、ロゴ・タクパ(Logo Takpa)村で暮らしていた。しかしもう、彼女は年齢を指で数えられない。2週間前、刃物を持った男たちに、右腕を切断されたのだ。

神を讃えよ

3人目の女性は、マリー・ズザ(Marie Dz’dza)。彼女は、デウェザの娘でイレーヌ・マーヴのおばにあたる。髪を短く刈り、ほっそりした女性だ。ターコイズ・ブルーのプラスチック製ビーズでできたロザリオを首にかけている。2週間前、彼女は5児の母だった。しかし、今は、マチェーテの男たちのせいで、4児の母だ。2週間前、彼女は畑を耕して食糧を得る農民だった。皮の厚くなった両手でキャッサバを育てていた。マチェーテの男たちは、その両手も奪った。

神を讃えよ

コンゴ民主共和国のイトゥリ(Ituri)州ジュグ(Djugu)地区を襲い、同地区の住民数十万人を苦しめた不可解な暴力は、2017年12月に始まった。ときには1日数件のペースで、パンガ(短刀)、斧、弓、槍で武装した男たちによって、次々と村々が襲われ、今年2月後半から3月上旬にかけて暴力の波濤は頂点に達した。国連によると、被害に遭った村は全部で約120。数百もの住民が殺され、数千もの家屋が破壊された。

襲撃が突発的に増加した原因については、様々な憶測が錯綜しているが、その結果に解釈の余地はない。民族浄化が繰り広げられたのだ。イトゥリ州の少数民族〈ヘマ(Hema)〉は、主に〈レンドゥ(Lendu)〉で構成された武装集団によって、住む場所を追われた。武装集団のなかには隣人もいた。破壊活動は、宇宙からも確認できるほど広範囲にわたり、その無慈悲さにより、ヘマは住む場所を奪われるだけでなく消滅の危機に追い込まれている、との懸念すらある。ヘマの文化協会会長、ハジ・ルヒンガ・バマラキ(Hadji Ruhingwa Bamaraki)は当時のインタビューで「これはジェノサイドだ」と訴えた。

35万人を超えるイトゥリ州民が襲撃によって避難を強いられた。そのうち5万人以上がアルバート湖(Lake Albert)を渡って隣国ウガンダに難を逃れた。米国でいえばセントルイスやピッツバーグ、シンシナティ、それぞれの都市の全人口が避難を余儀なくされているようなものだ。

コンゴ民主共和国の最東端で2018年初頭に起きたのは〈沈黙の殺戮〉だ。殺戮の暴威を世界は等閑に付し、それに続く人道危機は、国際社会の無関心により、深刻さの度合いを増した。米国トランプ政権が掲げる〈アメリカ・ファースト〉が今回の災厄で果たした役割は、決して小さくない。2017年、米国の平和維持活動支援が唐突に方針を転換した結果、マチェーテを携えた数百の民兵は、人を殺しながら何の咎も受けず、数十万の女性、子ども、男性たちは、計り知れない災厄に巻き込まれた。

ジュグ地区での虐殺、集団脱出の事実は、地区外にほとんど伝わらなかった。国連総会でこの惨事について検討されることもなく、ホワイトハウスが事態に警鐘をならすこともなく、夜のニュースで特集されることもなく、24時間放送のケーブル・テレビのニュース局で緊迫した討論が交わされることもなかった。

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今年の2月から4月にかけて、私は、300人以上の関係者を取材した。首長、現役もしくはOBの政府職員、兵士、上級将校、活動家、アナリスト、国連職員、援助機関スタッフたち。私は、そのなかでも、マリー・ズザ、ジェジンヌ・デウェザ、イレーヌ・マーヴをはじめ、襲撃の目撃者や被害者の取材にほとんどの時間を費やした。目撃者、生存者のインタビューをとおして、私は、31もの村々における襲撃事件を確認した。それに加え、首長、地元ジャーナリスト、人権活動家、国内避難民たちが一連の襲撃と同様の、62件にも及ぶ虐殺の情報を提供してくれた。

彼らの証言、村々で目撃した破壊の痕、コンゴとウガンダで目の当たりにしたあまりにも心もとない支援の実情は、国際社会が人道危機を直視しない結果、現地で起きている事実の鮮明な詳細をものがたっていた。

コンゴ民主共和国のイトゥリ州ジュグ地区にある僻村, マゼ村の航空写真. 3月, レンドゥの武装集団が40名以上のヘマを殺害. Adam Desiderio for VICE News

ロゴ・タクパ村を襲った暴力は、ジュグ地区を飲み込んだ殺戮の典型だ。今年3月のある深夜、刃物、弓矢を携えたレンドゥの男たちが、夜の闇のなかを叫び声とともに村を襲った。目が悪く足取りもおぼつかないジェジンヌ・デウェザは、逃げる近隣住民たちに遅れをとった。母親想いのマリー・ズザも逃げそびれた。「母は逃げられなかった。だから、私が母を助けなければならなかったんです」と彼女。

少ししてから、ズザは母親を連れ、こっそり村から脱出しようと試みたが、ほどなくして、武装したレンドゥの男たちに見つかってしまった。マリー・ズザは、男たちを全員知っていた。彼らと同じマーケットを利用していたからだ。豆、野菜、キャッサバ、トウモロコシの粉を、みんなが売買していた、木造の露店が立ち並ぶ大通り沿いのマーケットだ。彼女は、幼い頃の彼らも知っている。

視界が悪く、状況を正確に判断できなかったジェジンヌ・デウェザは、若い男たちを叱りつけた。ズザは、母親の口を閉ざすために「ママ、叫ばないで。いいから祈って」と懇願した。そのとき、ひとりの男がパンガをふるい、ズザの側頭部を殴打した。そしてズザは意識を失った。

少ししてズザは意識を取り戻したが、まだ朦朧としていた。彼女が横たわっていた地面は、ベトベトに湿っていた。しばらくして、彼女は痛みに襲われ、激しく痛む自分の両腕を見つめた。刃物で切りつけられたであろうワンピースの袖は、糸でかろうじてぶら下がっていおり、血で染まっていた。「これで死ぬんだ、と確信しました」

マリー・ズザ(左), イレーヌ・マーヴ(ストライプのシャツ), ジェジンヌ・デウェザ(青いシャツ, 左手に包帯を巻いている). 同じ家族の3世代で, 3月に起きたイトゥリ州のチェ村に近いロゴ・タクパ村の襲撃を生き延びた. 刃物で武装した集団はズザの前腕2本, マーヴの右腕, デウェザの指を4本切断した. Nick Turse for VICE News

誰もズザを助けにはこなかった。しかし、それは彼女に限った話ではない。コンゴ東部の田舎では、自分以外に頼るものはない。支援団体もなければ、救急車も呼べない。警察も襲撃されれば逃げてしまう。

約2日後、村内を巡回していた兵士たちがズザを発見した。兵士たちは、いちばん近い医療センターに彼女を搬送した。「そこで、私は両手を失ったことを知りました」と彼女は、残った腕を私のほうへ突き出した。

前腕が通っていたはずのワンピースの袖は、だらん、と垂れていた。

ジュグ地区での殺戮、3月半ばにその殺戮が突然止んだことについて、説明するのは難しい。農地破壊、誘拐、殺人など、小規模な暴力はいまだに続いている。大多数の専門家やアナリスト、そして避難民たちは「見えざる手」と呼ぶ何かについて言及する。〈見えざる手〉、つまり、ヘマを追放するために、地方や国家権力を牛耳る実力者、もしくは、亡命中の政治家と結託した強力な政治的軍事勢力だ。

具体的な証拠はないものの、国民の大勢は、今年12月に予定されている総選挙を延期する口実としてイトゥリ州の情勢を撹乱すべく、ジョセフ・カビラ(Joseph Kabila)大統領、または、大統領支持者が殺戮を指揮しているのではないか、と予想している。カビラ大統領は、憲法で定められた任期が2年前に切れてからも、大統領の座に留まっている。

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イトゥリ州ジュグ地区の諍いの影響によって、2018年の選挙が実施されない可能性がある、と選挙委員会長のコルネイユ・ナンガー(Corneille Nangaa)が報じたとたん、襲撃が始まった、と大勢が指摘する。ヒューマン・ライツ・ウォッチの中央アフリカ部長、アイダ・ソーヤー(Ida Sawyer)によると、この〈カオス戦略〉は、これまでにも成功を収めてきたそうだ。

「つまり、今回のような大規模な暴力を局地的に行使し、それを選挙のさらなる延期のための口実、カビラが大統領に留まるための理由として利用するんです」。これについて内務大臣兼副首相、アンリ・モヴァ・サカニ(Henri Mova Sakanyi)の事務所に何度かコメントを求めたが返答はなかった。

襲撃の動機は不明瞭だが、眼に余る残虐性は決定的だ。殺戮現場の写真は、ほぼまっぷたつに割られた頭、完全に切除されている頭部などを撮らえている。頭蓋骨は砕かれ、性器は切り取られている。遺体はあまりにもぐちゃぐちゃで、見ていると頭がおかしくなりそうだ。

私は、病院、医療センター、国内避難民キャンプを訪ね、負傷者やトラウマを抱えた被害者たちと話をした。刃物で顔を切られた幼児たちにも会った。片腕を負傷し、顔を矢で射られた年配の女性、武装集団に頭を切り取られかけた少女、片手を失った11歳の子どももいた。ある男性は、ふくらはぎを抉られ、その肉を食べるよう武装集団に強いられたという。

ブニアので救護ベッドに腰掛けるマーヴ・グレース(Mave Grace)11歳. チェ村で療養している. Adam Desiderio for VICE News

病院のベッドに横たわる男性たちとも対面した。血の滲んだ包帯に巻かれた彼らの瞳に生気はなく、表情もなかった。傷が許すかぎり身を縮めた彼らの姿は、全身で怯えを表現しているかのようだった。常に襲撃を恐れているようでもあった。彼らのほとんどが自らの体験について口を開こうとしない。女性たちは、襲撃のさいに集団レイプを受け、避難時には性暴力の標的になった。セーブ・ザ・チルドレンのレポートによると、ウガンダに避難したコンゴ人の子どものうちの10%が避難する最中にレイプされたという。

さらに大きな問題は、生存者たちがコンゴ民主共和国政府からも国際社会からも然るべき支援を受けていないことだ。診療所、医療センターでは、患者に投与する薬剤、適切な病院に患者を搬送するために記入すべき書類までもが不足している。避難民たちは、住居だけでなく、食糧や充分な飲料水にさえ事欠く状態だ。国内避難民キャンプも食糧不足に悩まされている。幼い子どもを連れた母親は、定員オーバーのテントに殺到するが、そこに入れなければ、何週間も野外で寝泊りしなければならない。キャンプ外の避難民たちの状況はさらにひどく、親族や他人の情けにすがらざるをえない。

薄紫の空が色を濃くするなか、マリー・ズザは、彼女の家族がどうにかカトリック系慈善団体〈Caritas〉の援助を受けられることになった、と教えてくれた。ジェジンヌ・デウェザ(Jesinne Dhewedza)は、一日中同じ姿勢でじっと座っており、時折、言葉数少なくつぶやく。イレーヌ・マーヴも何もしゃべらずに過ごしている。彼女たちはみんな、傷を癒すための定期的な治療を必要としている。もちろん生活必需品も。しかし、どちらも保証されてはいない。

〈Mudzi Maria Health Center〉を運営するシスター・アンジェール(Sister Angele)によると、センターの少し先にあるキャンプには9000余人の避難民がいるので、スタッフはみんな頑張っているが疲弊しているという。「一度にこんなにも大勢の患者さんがいらっしゃるなんて想像していませんでした。私たちが必要としているのは、ベッド、テーブル、レントゲン機器、薬など、基本的な設備と物資です」。行政サービスがない。援助がない。資金がない。「政府が何もしていないのはいうまでもありません」と院長は首を横に振る。

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「コンゴ・マタティーゾ(Congo matatizo)」。〈コンゴの苦難〉を意味するスワヒリ語だ。

CHAPTER 2: 救済はどこに

3月上旬, レンドゥの武装集団がマゼ村の住民40人以上を惨殺した. 襲撃で殺された犠牲者のなかには女性や子どももいた. 村民の大半がブニアの国内避難民キャンプへ身を寄せたが,マゼ村に残り, 破壊を免れた数少ない建物のなかで暮らす村人も数名いる. Adam Desiderio for VICE News

マリー・ズザが重傷を負った襲撃に類する暴威は、19世紀後半に端を発する。19世紀後半といえば、ジョゼフ・コンラッド(Joseph Conrad)による『闇の奥』(Heart of Darkness, 1899)の舞台として悪名高いコンゴ川流域の広大な土地を、ベルギー国王レオポルド2世が私的に占有していた時期だ。レオポルド2世の公安軍は、天然ゴムを略奪し、住民に残虐非道をはたらいただけでなく、先住民の手を切断し、それをカゴいっぱいにしてレオポルド2世に仕える白人高官に献じていた。恐怖による支配だ。殺人、飢餓、病気、強制連行がコンゴに大打撃を与えた。19世紀末、レオポルド2世のホロコーストにより、コンゴの人口は半減し、約1000万人になってしまった。

それから100年後、1990年代半ばから2000年代初頭まで続いた〈アフリカ大戦〉で、さらに数百万人の国民が命を落とした。コンゴ東部だけで、40にも及ぶ武装集団が活動し、戦闘、あるいは、飢え、病気が原因で、500万人以上の国民が犠牲になった。

イトゥリ州では、〈牧畜のヘマ〉と〈農耕のレンドゥ〉の対立が地元、国内、地域の紛争と絡み合い、泥沼化した。ヒューマン・ライツ・ウォッチによると、2000年代初頭には、数ヶ月にわたる戦闘で約7000人が死亡し、同州は〈人道的大混乱〉に陥った。1999年から2003年にかけての死者数は推定5万5000、避難民は50万に及ぶ。同州は、コンゴで「どこよりも血なまぐさい土地」と呼ばれた。

今でも地球のどこかで紛争が続いており、避難生活を強いられる人びとが後を絶たない。2017年末の時点で、6850万人もの人びとが避難民として生活している。コンゴ民主共和国の危機的状況は、そのなかでも最大規模と目されている。北キヴ(North Kivu)州、南キヴ(South Kivu)州、タンガニーカ(Tanganyika)州、カサイ(Kasai)地域、さらに首都キンシャサ(Kinshasa)でも、反政府運動が過剰な武力で弾圧され、暴力と混乱が収まる気配はない。

今春、イトゥリ州を離れた避難民35万がコンゴの国内避難民680万に加わった。国を出てサブサハラに逃れた避難民は55万2000にも及ぶ。2017年だけで200万以上のコンゴ民主共和国民が故郷を後にした。この数は、ミャンマーで家を失ったロヒンギャのおよそ3倍だ。2018年、1300万のコンゴ人が人道支援を必要としており、その数は、人道支援を必要とするシリア人の数に匹敵する。

今でこそイトゥリ州は、コンゴで〈もっとも血なまぐさい土地〉ではないが、ここ数ヶ月、同州で吹き荒れた暴力は、19世紀末から20世紀初頭、そして、21世紀の同国での殺戮、あるいは地球上で起きたあらゆる虐殺と肩を並べるほど深刻で残虐だった。

VICE NEWSが独自に確認した、襲撃を受けた村

Angolou アンゴルー
Blukwa ブルクワ
Bule ブレ
Cite シテ
Dhendro デンドロ
Dii ディー
Joo ジョー
Kafe カフェ
Kakwa カクワ
Kasenyi カセニ
Kawa カワ
Kparngandza クパーンガンザ
Kpi Kpi クピ・クピ
Logo Takpa ロゴ・タクパ
Lovi ロヴィ
Marifa マリファ
Maze マゼ
Metu メチュ
Nyamamba ニャマンバ
Reta レタ
Rule ルレ
Sala サラ
Sbii スビー
Sombosa ソンボサ
Sombuso ソンブソ
Songamaya ソンガマヤ
Talega タレガ
Tara タラ
Tche チェ
Tchele チェレ
Tchomia チョミア

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*VICE NEWS独自の調査により, 31の村への襲撃を確認した. ヘマの情報によると, それに加え, 少なくとも62の村が襲撃を受けたという. 国連は, 最大で120と発表している.

「コンゴは、暴力が日常茶飯事の国です。しかし、そんなコンゴにおいても、ジュグ地区の襲撃の数はかなり異常でした」とヒューマン・ライツ・ウォッチのソーヤー部長は指摘する。「暴力が始まると、ありえない速さで広がりました。現地のみんなにしてみれば、何の前触れもなく始まったかのようでした」

イトゥリ州出身のヘマ難民や国内避難民たちが口をそろえて語るところでは、確かに過去の衝突でレンドゥとの禍根は残っていたものの、この10年は、比較的穏やかに隣人として暮らし、マーケットも共有しており、グループをまたいだ婚姻もあったという。半年前頃からは緊張が高まり、近々攻撃される、という噂が広まっていたとはいえ、ヘマの避難民たちは、隣人が一夜にして殺人者に変貌した事実を目の当たりにし、ショックを受けている。

「これは民族紛争なんかじゃありません」とレンドゥ文化協会副会長のジャン=マリー・ンジャザ・ランド(Jean-Marie Ndjaza Linde)は、今年の3月初頭、まだ毎日のように虐殺が起きていた時期のインタビューで断言した。「これは部族間の戦いではありません。私たちは、見えざる手に操られているんです」。2006年から2011年までイトゥリ州議会の代議士を務めたレンドゥのンガブ・カパーリ・ジャン=ピエール(Ngabu Kaparri Jean-Pierre)も「ふたつの部族を衝突させる計画」があったのかもしれないという。

動きまわる武装集団が4月初頭までに, コンゴ民主共和国イトゥリ州内の120の村々を蹂躙した. Nick Turse for VICE News

ヘマのハジ・ルヒンガ・バマラキ(Hadji Ruhingwa Bamaraki)文化協会会長も同様の見解だ。「ふたつの部族のあいだに諍いはありません。なぜ攻撃されているのかわかりません」。彼も、見えない力が働いているとする説を支持する。「黒幕は誰なんでしょう。実に見事に組織された混乱です」

刃物や弓矢だけの襲撃者たちから、アサルトライフルで武装した地元警察や兵士が逃げていた、という証言を数十人から得た。

コンゴ民主共和国政府軍(Armed Forces of the Democratic Republic of the Congo: FARDC)のイトゥリ州広報担当者であるジュール・ンゴンゴ(Jules Ngongo)中佐は、その証言をきっぱり否定した。中佐によると、敵前逃亡者には20年の禁固刑が課されるという。

とはいえ、政府が他地域から兵士や警官隊を派遣し、ジュグ地区に潜む武装集団を標的にしたFARDCの任務が始まったのは、今年の2月下旬だった。しかも国連のレポートによると、2月から3月中旬までにイトゥリ州で報告された襲撃70件のうち、治安部隊が介入したのはたったの10件だった。

襲撃の被害者が田舎から逃げ出すのといっしょに、虐殺のニュースは瞬く間に広がった。その話題は、地元議員でジュグ地区出身のアルール(Alur)族、ピエール・クラヴェール・ベディジョ(Pierre Claver Bedidjo)の耳にもすぐに届いた。彼は、イトゥリ州の州都ブニアの自宅で、2月のあいだずっと、この危機的状況について悩み続けた。わずか数十キロ先で、村々が焼かれ、たくさんの住民が殺されているというのに、中央政府、イトゥリ州知事、治安部隊は、ほとんど何もしていない。

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およそ20年前、イトゥリ州で勃発した民族紛争をどうにか生き延びたベディジョにとって、それ以上の暴力など耐えられなかった。怒りに震えた彼は、権力者を動かそうと決意し、助けを要請する手紙を書いた。ベディジョは、その手紙を、ジュグの民を救ってくれるであろう政府関係者各所に郵送した。その手紙は、地元メディアにも取りあげられた。

何が起こっているか具体的に知らないなんて、誰にもいえるはずのない状況だった。

「ジュグ地区で血が流れていることを、私は、貴方に進言しなくてはならない義務があります。実際、貴方の代表団がイトゥリ州に滞在してちょうど1週間になります。その期間は、ジュグの民にとって、まさに血まみれの1週間でした」。ベディジョが3月12日にアンリ・モヴァ・サカニ内務大臣兼副首相に送った手紙にこう記した。「貴方の滞在中にも、サラ、ロニョ(Lonyo)、デリ(Deli)、ルツ(Lutsu)、サイクパ(Saikpa)、ロザ(Lodza)、ニャマンバ、カフェ(Café)、ジナ(Jina)、ロガ(Loga)などを含むたくさんの村々への襲撃が確認されています」。この土地は、急速に遺体安置所になりつつある。「今こそ、公権力は、たとえどんな犠牲を払おうとも、平和をもたらすために行動すべきです」と彼は嘆願した。

翌日も、キーボードを叩くベディジョの怒りは収まらなかった。「貴方は長いあいだ、エアコンの効いた快適な事務所に閉じこもっています。外では、おびただしい量の血が流れているというのに」。彼は手紙で、イトゥリ州知事、ジェファーソン・アブダラ・ペネ・ムバカ(Jefferson Abdallah Pene Mbaka)を厳しく非難した。「閣下、貴方も、時間を無駄にすべきでない、とわかっていらっしゃるはずです。日々、たくさんの家が焼かれ、たくさんの住民が命を落としているのですから」。彼は手紙をこう締めくくる。「どうか忘れないでください。貴方がこの難局でいかに民を救ったか、その手腕がジュグの住民、イトゥリの住民に評価されることになるのです」

ダヴィッド・イツォバ(Davide Itsobwa)は, 3月のマゼ村の襲撃で, 母親を含む親族15名を失った. イツォバは, 地元の人権団体に協力するため、殺害された村民全員の名前を記録しようとしている. Adam Desiderio for VICE News

ベディジョの手紙について、サカニ内務大臣兼副首相、ペネ・ムバカ州知事に複数回コメントを求めたが返答はなかった。

政治家たちの沈黙に耐えかねたベディジョは、3月15日、国連の平和維持部隊〈国連コンゴ民主共和国安定化ミッション(United Nations Organization Stabilization Mission in the Democratic Republic of the Congo: MONUSCO)〉の地域代表に訴えた。「ご存知の通り、この3ヶ月近く、ジュグ地区は炎と血で覆われています。殺人、家屋の炎上、略奪、大量の避難民。凄惨な光景が日常と化しています」。彼の手紙はこう始まる。ベディジョは、人道危機と飢餓の可能性を警告し、行動を訴えた。「なぜなら、もし私たちが見過ごしてしまえば、同地区、あるいはイトゥリ州全域が焦土になるおそれがあります」

コンゴ政府軍や地元警察は頼りにならず、ともすれば暴力に関与していることのほうが多いだけに、同地域におけるMONUSCOの重要性は誇張してもしきれない。例えば、テネシー州ノックスビルのテネシー大学(University of Tennessee)及びノースカロライナ大学ウィルミントン校(University of North Carolina Wilmington)の研究者による最近の研究では、MONUSCOの拠点付近では暴力発生件数が劇的に減少している、と確認されている。さらに、国連軍に守られているエリアでは、民間人の死者が比較的少ないこともわかった。

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しかし、今回の襲撃事件が始まる数ヶ月前に予算が削減され、MONUSCOの活動は阻まれた。イトゥリ州の拠点も閉鎖に追い込まれた。

MONUSCOの予算削減を推進した張本人は誰か? 米国だ。

2017年、トランプ政権の新国連大使、ニッキー・ヘイリー(Nikki Haley)がMONUSCOの活動を含む、平和維持活動における大幅な予算削減案を推し進め、それを実現した。ヘイリー国連大使は予算削減を歓迎し、トランプ新政権のこれからに期待感を示した。「われわれは、米国民に血税の使い途の価値を示す義務があります」と彼女はいう。「大統領は、就任からわずか5ヶ月で、5億ドル(約554億円)もの国連平和維持活動予算の削減に成功しました。これは始まりに過ぎません」。VICE Newsは、ヘイリー国連大使の事務所にコメントを求めるべく、複数回連絡した。最終的に広報担当から「大使の公式声明に付け加えるべき内容はない」との返答を受け取った。

リシンガ・ジェラレ(Lisinga Gerare), 57歳。イトゥリ州の僻村、ソンガマヤ村の襲撃の被害者。「逃げられる道も, 隠れる場所もありませんでした. 年寄りや子どもを虐殺し, 家々を燃やし尽くしました」 Adam Desiderio for VICE News

イトゥリ州で予算削減の影響が明らかになる以前、ニューヨークのシンクタンク〈国際平和研究所(International Peace Institute)〉による2017年のレポートは、ヘイリー大使の策略は「コスト削減だけが目的であり、より実効性の高い計画、より平和なコンゴ民主共和国を実現するための明確なビジョンを反映しているものではない」と警告した。2018年1月に発表された〈Center for Civilians in Conflict(CIVIC)〉のさらに詳細なレポートでは「紛争地域の民間人を保護できる地域とできない地域の差が生じる可能性がある」と指摘している。

同月、暴威がイトゥリ州で猛威をふるった。

コンゴ民主共和国の国連事務総長特別代表補デヴィッド・グレスリー(David Gressly)によると、事前通告もないに等しいなかで予算の大幅削減が実施され、2017年の活動は大打撃を受けた、と証言する。「平和部隊ひとつぶんの予算に相当します。少ない部隊でより広域をカバーしなくてはなりませんし、多くの拠点からの引き上げを余儀なくされています」

私は、予算削減によってイトゥリ州での襲撃に対処するMONUSCOの活動が阻まれたのか、という質問を米国国務省に複数回問い合わせたが、平和維持活動への米国の支援についてぼんやりした説明が返ってきたのみで、明確な回答はなかった。米国の資金援助に頼っているMONUSCOも、このような質問は基本的に無視している。ただ、フロランス・マーシャル(Florence Marchal)広報担当は「拠点閉鎖がMONUSCOの今年初頭の応答時間に影響した」と認めてはいる。

CIVICの平和維持アドバイザーで、前述の2018年のレポートの著者であるローレン・スピンク(Lauren Spink)は、グレスリー国連事務総長特別代表補とマーシャルMONUSCO広報担当の見解に同意する。「MONUSCOが撤退を余儀なくされた地域では、武装集団の活動が活発化しており、現在、これまでならば同組織によって牽制できたであろう襲撃が発生しています」

虐殺が起きたことにより、国連平和維持部隊は、ジュグ地区に12の短期〈常備戦闘配置〉基地と5つの暫定的な軍事基地を設置した。しかし、スピンクは「MONUSCOの短期的な駐留では、住民を守りきれません」と指摘する。

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3月にチェ村から避難してきたクロディーヌ・ンガベ(Claudine Ngabe). 2歳の孫, ロシェル・ンガブシ(Rochelle Ngabusi)の面倒を見ている。ブニアの国内避難民キャンプで「この子の母親はレンドゥに殺されました」とンガベ. Adam Desiderio for VICE News

アフリカの場合、MONUSCOの予算削減は、トランプ政権の無関心を象徴するひとつの例にすぎない。トランプ大統領がアフリカの国々を「肥溜め(shithole)」国家と発言したことを認めなくとも、彼の政策や予算削減自体は、彼の姿勢をものがたっている。トランプ政権下の米国は、コンゴ民主共和国を含む14ものアフリカ諸国に大使を派遣していない。2017年8月、トランプ政権は、アフリカ大湖沼地域およびコンゴ民主共和国における米国特使の役職廃止計画を発表した。特使の業務は、他の政府関係者に割り当てられる。現在、米国国務省アフリカ局の指導者的役職の大半を、〈臨時〉の職員、つまり、大した権限を持たない代理人が務めている。さらにトランプ政権は、国務省と国際開発庁(U.S. Agency for International Development: USAID)の予算の25%削減を目指している。

当記事公開に先立ちホワイトハウス側にコメントを求めたが、返答はなかった。

コンゴ民主共和国への支援額が米国の方針を裏付けている。10年前、コンゴの〈人道対策計画(Humanitarian Response Plan)〉では、要請額の83%が集まった。そのさい、米国は、圧倒的な支援金を提供した。イトゥリ州の虐殺事件後、2018年4月の支援会議で米国の支援額は、3番目に止まった。米国のコンゴへの支援額は、10年前と比べると40%減少していた。

全体として、コンゴ民主共和国への世界からの人道支援は減り続けている。2015年は援助対象者ひとりあたり84ドル(当時のレートで約8400円)だったところが、2017年には61.5ドル(約6800円)となった。2017年、コンゴへの義援金の達成率は59%。つまり、必要とされる3億3100万ドル(約330億円)には40%以上足りない。

「2017年、コンゴ民主共和国の援助対象者ひとりあたりの総額は62ドル(約6900円)。一方、シリアでは、ひとりあたり305ドル(約3万3000円)です」と説明するのはノルウェー難民委員会(Norwegian Refugee Council)のキンバリー・ベネット(Kimberly Bennett)だ。ノルウェー難民委員会は、イトゥリ州の危機のあいだ、現地で存在感を発揮した世界でも数少ない支援団体である。「もちろん、かかるコストは国によって違います。しかし、ここまでの格差をどう説明します?」

2018年初頭には、寄付金不足のため、惨状はさらに悪化した。国際移住機関(U.N. migration agency)コンゴ民主共和国大使、ジャン=フィリップ・ショジー(Jean-Philippe Chauzy)は、1月に「コンゴ民主共和国の人道的状況は、われわれの手に負えない」という声明を発表した。イトゥリ州以外で、2017年のカサイの紛争地域、南北キヴ州、タンガニーカ州を中心に、17億ドル(約1900億円)が必要だと試算されている。

何千ものコンゴ民主共和国民がこういった国内避難民キャンプに逃れた. ブニア最大のキャンプ. Adam Desiderio for VICE News

コンゴ民主共和国での人道支援に必要な資金調達は、海外投資家と多国籍企業の関心をひくために国情を偽ろうとする中央政府のあがきに妨げられている。「コンゴのイメージをあえて貶めるかのような、支援機関による国内情勢の説明に、政府は反論します」とパトリック・ンカンガ(Patrick Nkanga)大統領顧問官は、支援金調達に奔走している組織について発言した。国際協力次官のフレディ・キタ(Freddy Kita)も、4月、『New York Times』に同様の見解を述べ、コンゴ国内では「人道危機など起きていない」と主張し、援助の呼びかけなどは〈邪悪なキャンペーン〉の一環だとした。

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最終的に、コンゴ民主共和国は、4月に開催された自国支援のための会議をボイコットした。また、参加者の大半がボイコットしたも同然だった。会議では、必要と想定された資金の3分の1以下、約5億2800万ドル(約580億円)が約束されたが、資金を拠出したのは、参加した計55の国と地域組織のうち、わずか22に止まった。6月末、コンゴ民主共和国は、2018年の人道対策計画の資金額において、イエメンやイラクなどの危険地帯を差し置いて、ワースト5に位置している。

「実に残念です」とワシントンD.C.を拠点とする活動団体〈Refugees International〉のサブサハラ・アフリカ専門家、アレクサンドラ・ラマルシュ(Alexandra Lamarche)は嘆く。「支援を必要としているコンゴ民主共和国民の数は、支援を必要としているシリア国民とまったく同じ数です。しかし、みんなコンゴには関心がないんです」

CHAPTER 3: 逃げ場なし

住む場所を追われた家族は, ブニアにある総合病院周辺の国内避難民キャンプにシェルターをつくる. Adam Desiderio for VICE News

避難民たちは、絶望と疲労に打ちひしがれ、徒歩、またはトラックやバイクで、イトゥリ州の広大な田園地帯の片隅にある村や町に押し寄せた。

今年2月上旬、避難民がブニアの総合病院に殺到した。敷地に入りきらない避難民が病院周辺で生活を始めた結果、その一帯は、同地域で最初の国内避難民キャンプになった。ほどなくして、避難民数百人が、折り重なるようにつくられたシェルターで生活を始める。5月下旬の時点で、1万722人が猫の額ほどの土地を共有していた。

2月、人道支援組織は、ブニアの窮状に対処するべく、900万ドル(約10億円)もの包括的援助計画の概要を発表したが、それでは不充分だとすぐに判明した。〈LASI〉の別称で知られる地元NGO〈AIDS League of Ituri〉職員で58歳の牧師、イグニス・ビンギ(Ignace Bingi)は、キャンプ滞在者全員に温かい食事を日に1食届けるだけでも、約540キロの米、約300キロの豆、約40リットルの油が必要だ、と総合病院で明かした。食糧は常に不足しているという。

「いつもお腹が空いています」と57歳のリシンガ・ジェラレは訴える。彼は、5児の父親で、ソンガマヤ村への襲撃から逃れてキャンプにたどり着き、足を伸ばして眠れないほど小さなテントで暮らしていた。

「午前中はおかゆをもらうために列に並び、夜も米と豆をもらうために、長い時間列に並びます」とリシンガ。「肉も魚もフフ(アフリカ全域の主食。キャッサバ粉などを練ったもの)もありません。私たちはここで、生きているフリをしているようなものです」

2月の時点ではまだ、キャンプ滞在者は1日2食にありつくことができた。4月には、多くても1日1食になってしまった。その頃には、街の反対側に別の国内避難民キャンプが開設され、ブニアの避難民は12万8235人を数えた。

「今夜は全員に食事を届けられないかもしれません」と4月上旬のある日、キャンプ地の高台にある不衛生な仮設トイレの近くでビンギ牧師は言った。「貯蔵室には、ほぼ小麦粉しか残っていません」。彼はキャンプの清掃業者、調理スタッフ、警備員を雇い、資金を全て使い果たしていた。

「今は彼らに賃金を払っていません。神が与えてくださるでしょう」。ひと呼吸置いて空を見上げた後、「そう願っています」と彼は続けた。

動きまわる武装集団によって立ち退きを余儀無くされた住民の多くは、ブニアを離れて東へ向かい、アフリカ大陸で5番目に大きい湖、アルバート湖を横切る国境を越えて逃げるしかなかった。避難民の大半は、壊れかけた木製の漁船やカヌーで、近辺ではおそらくもっとも安定しているウガンダに向かうため、全財産、またはそれを上回る1万~4万コンゴ・フラン(約700~2800円)を費やした。

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「舟は超満員です。座礁したり、迷ってしまう舟もあれば、燃料切れになる舟もあります」とUNHCRのフィールドオフィサー、タム・ダニエル・ロジャー(Tam Daniel Roger)は、3月のある曇りの朝、地域最大の舟着き場であるウガンダのセバゴロ(Sebagoro)で証言した。

避難できなかった住民もいる。2月11日、湖を渡ろうとして4人が溺死した。匿名を条件に取材に応じてくれた現地の当局者によると、死者のうち3人は子どもで、それぞれ3歳、9歳、12歳だったという。

それでもなお、湖を渡るコンゴ民主共和国民は数十、数百、数千と増え続けた。

3月, 国内避難民がブニアに押し寄せた. Adam Desiderio for VICE News

ウガンダ北部で、南スーダンの内戦、その戦闘を逃れた1万人以上の難民、というふたつの人道危機に対応していた国際援助機関は、コンゴ民主共和国からの難民流入に対処すべく、アルバート湖周辺に拠点を移した。車道はすぐに様々な団体の頭文字が記されたトヨタの白いランドクルーザーで埋め尽くされた。UNHCR(United Nations High Commissioner for Refugees:国連難民高等弁務官事務所)、MSF(Médecins Sans Frontières:国境なき医師団)、LWF(The Lutheran World Federation:ルーテル世界連盟)、MTI(Medical Teams International:国際医療チーム)、 AIRD(African Initiatives for Relief and Development)、FRC(Foreign Relations Committee:米上院外交委員会)、IOM(International Organization for Migration:国際移住機関)、WFP(World Food Programme:国連WFP)、ICRC(International Committee of the Red Cross:赤十字国際委員会)。この景色は〈現在進行形の危機〉が起きていることの証でもある。ウガンダ側のアルバート湖畔では、コンゴ国内よりずっと多くのNGOが活動しているが、新たな人道危機により、支援スタッフは対応に追われた。

時を経ずに、感染症が広まった。2月15日、セバゴロに到着した年配の男性1名が、嘔吐、発熱、激しい下痢の症状を訴えた。同じ日、同様の症状に苦しむ5歳未満の幼児ふたりがキャングワリ(Kyangwali)の難民キャンプで死亡した。3月末までに、キャングワリとキャカ(Kyaka)の難民キャンプで計2022件のコレラの症例が報告された。キャングワリだけで約7万6000人が感染の危険にさらされた。

セバゴロから約50キロ、雨が降らなければ2時間程で着く場所にあるキャングワリの施設は過密状態で、事態は混乱をきわめていた。数千もの難民が雨季の豪雨にさらされ、国境なき医師団のレポートによれば「劣悪な」衛生状態の野外での生活を強いられていたという。

左)ISPキャンプの未完成のシェルターで眠る子ども. ブニアの同キャンプは, 隣接する教育機関から名付けられた. (右)ブニアのISPキャンプにて. シェルターの骨組みのなかで子どもを抱く6児の母, 44歳のロジェリーヌ・ンドロバ(Rogeline Ndrobha). 彼女はこの2週間, 金属製の屋根の下, 壁のない木の骨組みのなか, 地べたで眠っていた. Nick Turse for VICE News.

2月、アルバート湖畔に絶え間なく押し寄せる難民に対応するため、当局は、キャングワリにマラタトゥ(Maratatu)と呼ばれる別の居住エリアを開設した。しかし、その後数週間で、避難民に供給可能な飲料水は、緊急事態と危ぶまれる量よりも少なくなった。3月には、米国オレゴン州の国際援助機関、国際医療チームが実施した幼児の栄養状態のスクリーニング検査の結果、緊急事態を示す値を超えた栄養失調の子供たちがいることが明らかになった。

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ゆるやかな起伏が続く草原に、無秩序に広がるマラタトゥのキャンプには、数千もの小さなシェルターが点在していた。UNHCRのロゴ入りの白いビニールシートで覆われた、木と竹と草でできたシェルターのひとつで、私はふたりの孤児、バラカ・ロコリオ(Baraka Locorio)とバラカ・ロサ(Baraka Losa)に出会った。ふたりの父親は、何年も前に亡くなり、母親は、レンドゥの武装集団によるタラ村襲撃で、数週間前に亡くなったばかりだった。

避難してきた数百人の子どもたちのために米を炊く女性. ブニアの総合病院周辺にある国内避難民キャンプ. Adam Desiderio for VICE News

「食べものが足りない。いつどこで配給があるかもわからない」とロコリオ。「僕たちが持ってるのは、せっけん、燃料缶、ビニールシートだけ」とロサはビニールシートに覆われたシェルターを指差して説明した。「水は足りてる」と彼の兄弟、ロコリオは教えてくれた。「でも、いちばんの問題は食べもの、服、教育。これがなければ豊かな生活はできないよ」

ロコリオは、コンゴに平和が戻れば帰りたいという。「未来をつかむためならどこにでも行く」とロコリオ。ロサは違うようだ。「絶対に帰らない」と彼は断言した。私がロサと話していたとき、ロコリオは、腕を引っ掻いて文字や模様、記号を描いた。乾燥した肌に血が滲むほどではないが、引っ掻いた痕が残るくらいの力を込めていた。反対側の腕や足にも似たような模様があった。私は彼に模様の意味を訊いた。「ただの文字だよ」と彼は顔をしかめ、恥ずかしそうに答えた。「他に何をすればいいかわからないから」

CHAPTER 4: 見えない明日

イトゥリ州ジュグ地区の中心地, ジュグ村にある政府軍の仮設軍事キャンプ. Adam Desiderio for VICE News

4月、一部の避難民がブニアに程近い村に戻り始めた頃、私は政府軍の部隊とともにセントラル=ラルグ通り(Central-Largu Road)を走り、ジュグ地区へ向かった。政府軍の兵士たちは迷彩服を着こみ、真っ赤なニット帽やさびた鉄のヘルメットなど、様々なかぶり物を頭にのせていた。ムッとするような汗とタバコの匂いを漂わせる彼らは、ここ数週間、徒歩で警らにあたり、時折、レンドゥの武装集団と戦ったという。

車に揺られて埃っぽい道を走り、丘を越えて平らな草原に入ると、彼らは黒焦げになった車のある交差点を指差した。3月下旬、政府軍はこの場所で、AK-47と弓矢を携えたレンドゥの奇襲を受けたという。「思い切り叩きのめしてやった」とナウェジ・マコボ(Nawedji Makobo)上級曹長。

MONUSCOによる政府軍の配備と作戦は、殺戮を中断させたかにみえたが、被害は甚大だった。ある村の男性数名が兵士に護衛されながら農場に向かい、ありったけの作物を収穫した。しかし、村に戻った彼らが目の当たりにしたのは、かろうじて平時の面影が残る、ひとけのない村だった。

襲撃者たちはヘマの村々から、家畜、食糧、台所用品、服など、金になりそうなモノを奪いつくした。彼らは、家屋、学校、教会の金属製の屋根を引き剥がして持ち去った。盗まなかったものには火を放つか、破壊し、蹴散らした。家々は粉々になったレンガの小さな塊、焼け焦げた竹材の山、破壊を物語る廃墟になり果てた。家屋の壁は壊され、なかから片足だけの長靴、割れた食器、溶けたプラスチックの燃料缶など、生活の残骸がのぞいていた。

襲撃のパターンは、苛烈で、大虐殺の動機が民族浄化の証左だ。

例えばヘマのロナ(Lona)村では、家屋は廃墟と化し、市場の露店はがらんどうだった。一方、そこから少し先のレンドゥの村、バブでは、絵に描いたような田舎の生活が営まれていた。かつてヘマの村だったタリは、破壊し尽くされ、共同体を形成していた住民の姿はなく、地図上にしか残っていない。しかし、すぐ近くのサリボコ(Saliboko)村に炎は及ばず、レンドゥの家族は普段通りの生活を送っていた。ヘマのマリファ(Marifa)村も無人で、黒焦げになった建物が点在していたが、近隣のレンドゥのモサンブコ(Mosumbuko)村に被害はなく、住民は通常の生活を続けていた。

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ヘマとレンドゥが隣り合わせで生活し、働いていたクパーンガンザの町も同様だ。焼かれた家もあれば、そうでない家もあった。ある店は廃墟となったが、別の店は営業中だった。

4月に私がコンゴを発った数週間後、イトゥリ州のペネ・ムバカ州知事は、ブニアのキャンプの国内避難民に帰宅を呼びかけた。彼はもう「懸念事項は何もない」と断言した。政府軍幕僚長のディディエ・エトゥンバ・ロンギラ(Didier Etumba Longila)将軍も、ジュグ地区の治安は正常に戻った、と発表した。

政府は、その根拠として、3月中旬にヘマとレンドゥの首長が署名した停戦協定に言及した。しかし、双方とも、交戦などしていない、と主張している。国連と会談した匿名の情報筋によると、ヘマとレンドゥの首長間の協定は、それぞれの代表者の話し合いの場も設けられずに結ばれたという。

立ち止まり写真を撮る政府軍の兵士. 廃墟化したマリファ村. 今年始め, 同村を含むジュグ地区の120の村々が武装集団に襲撃された. Nick Turse for VICE News

イトゥリ州では、小規模な暴力が続いている。4月22日、カウ(Kau)村のヘマの農夫たちが、武装したレンドゥに拉致された。UNHCRのレポートによると、5月8日には「ナイフを携えた男たちがチェ村に侵入し」21のパイナップル畑に火を放ったという。5月24日には、ジュグ地区の採石場で、襲撃者たちが刃物を振り回し4名が死亡、2名が負傷した。その数日後、バイクでブニアに向かっていた女性3名と男性1名が拉致された。ごく最近では、ヘマとレンドゥのあいだで交わされる小規模な報復攻撃、アルバート湖付近での武装集団による奇襲のほか、ブニア以外での殺人、略奪、強盗など、散発的な襲撃事件の報告がされている。

市民社会組織、ヘマとレンドゥ首長の代表団、さらに政府軍上層部は、ジュグ地区のいくつかの地域において政府軍部隊の不在が続いていることで、避難民が帰宅に不安を抱いている、と認識していた。

5月下旬、故郷の村に帰る避難民もいるいっぽう、よりいっそう絶望的な環境のブニアに向かう避難民の流れが途切れることはなかった。総合病院周辺のブニア初のキャンプでは、食事の配給が完全に途絶えた。キャンプ管理側は「避難民にとって悪夢だ」と地元メディアに明かした。

複数の避難民がイトゥリ州での暴力、それに続く貧困を〈悪夢〉という言葉で表現した。しかし、暴力や貧困の原因を理解している避難民はほとんどいなかった。隣人が殺人者になった理由は? なぜ国際社会は、重傷者を含め暴力の被害者が飢えていくのに無関心だったのか?

4月上旬, ジュグ地区は, 廃墟と化した家屋数千軒と学校, 診療所, 教会の瓦礫で埋め尽くされていた. Nick Turse for VICE News.

将来について「これからどうなるのか全くわかりません」とマリー・ズザは肘までしかない腕で額を拭った。彼女は様々な問題に直面していた。正式な教育を受けていない未亡人が、一体どうやって4人の子どもと身体障碍者の母親を養うのか? 家を壊され略奪に遭った女性が人生を立て直すには? 健常者であっても苦しい生活を強いられる田舎の村民が障碍者のための行政サービスのない国で暮らすにはどうすればいいのか? 恒久的な障碍を負った農民に、どうやって土地を耕せというのか? つまり、腕を失ったマリー・ズザは、どうやって生きていけばいいのか?

他の被害者たちも、大きなジレンマを抱えていた。無事に家に帰れたとしても、診療所も学校もない村には、略奪された店、焼け落ちた家、休閑地があるだけだ。コンゴ民主共和国が抱えるたくさんの問題と同じく、解決の目処はほぼ立っていない。現在の比較的落ち着いた状況は、さらなる虐殺の前兆だとする声も多い。「ヘマとレンドゥは完全に決裂しました。彼らが築いたささやかな平和すら失われたのです」と今年6月、ヒューマン・ライツ・ウォッチのソーヤー部長は説明した。

イトゥリ州チェ村の廃墟で見つけた<イエスは不滅だ>と書かれたポスター. 今年2月, マチェーテの武装集団が村を襲い, 男性, 女性, 子どもを殺害. 家々から略奪し, 火を放った. Nick Turse for VICE News.

4月、私がチェ村に到着すると、政府軍の兵士ふたりに、幹線道路沿いに積もった落ち葉の山に案内された。彼らは、2週間前に立てたという、雑な十字架を指差した。これは、彼らが巡回中に発見した男性の墓だそうだ。発見されたのは、そのとき私が立っていた場所だった。その男性の頭は、ほぼ真っ二つに割られていたという。

墓を後にし、かつて村の中心として賑わっていた大通りを歩いた。今では、黒焦げになった市場の露店や屋根のない建物が残るだけの廃墟だ。友人同士のおしゃべりや子どもたちの笑い声の不協和音は、鳥の鳴き声や風が木を揺らす音になり果てた。この静寂は、反吐が出るような暴力が生みだしたのだ。平和な村には決して訪れない静寂だ。

私の左側には、半壊した精肉店と、略奪に遭い、緑の空き瓶3本しか棚に並んでいない木造の露店がある。別の焼け焦げた建物の片隅には、2、3着の服と〈イエスは不滅だ〉と書かれたしわくちゃのポスターが残されていた。女性モノのスカートと左右ばらばらのサンダルが、半壊し、ドアも破られた家のなかに落ちていた。別の建物のなかでは、前ローマ法王のベネディクト16世(Benedict XVI)とカビラ大統領の会談を記念した、2009年のカレンダーがあった。2001年に就任したカビラ大統領は、暴力的手段をもって選挙を回避している、と非難され続けている。今回の襲撃もそうだったのだろうか。

その後まもなく、遠くから何かが聴こえた。小規模な銃撃戦のようにも聞こえたので、荒れはてた家の外に出ると、同行していた兵士のひとりと目が合った。言葉が通じないので私は自分の耳を指差し「今の音が聴こえたか」と身振り手振りで尋ねた。

彼は頷いた。

そして遠くを見つめた。