予約待ちの料理教室

取材中にはもちろん、すでに新しい人生を歩みはじめている難民たちにも遭遇した。

AAR が運営するコミュニティセンターでは、難民認定を受けるための法的支援や生活にまつわる相談を請け負うほか、子供向けの学習塾から、レクリエーション、縫製などティーンエイジャー向けの職業訓練、主婦層のための料理教室やフィットネスなど、さまざまなアクティビティを提供している。

コミュニティセンター内にある託児所. 親がアクティビティに参加している間, 子供たち同士で楽しく遊ぶ.

予約待ちになるほど人気だという料理教室に参加させてもらうと、女性たちの活気に圧倒された。

六畳一間ほどの小さなキッチンは、常におしゃべりで大賑わいだ。おみやげに持参した1kgのバクラヴァ(ナッツ入りパイを蜜漬けにした中東の激甘スイーツ)を瞬殺する旺盛な食欲がすがすがしい。アラビア語も話せず、料理の役にも立たない不審な外国人(私)にも、持前のホスピタリティでほどよく気遣ってくれる。

てっきりシリアの家庭料理をつくるのかと思いきや、「今日のメニューはこのあいだ本で見た米国料理よ!」というユルさもいい。

シリア料理の定番, 羊飼いサラダと, 米国料理だというチキンチーズロール.

さらに、難民と地元コミュニティの交流を促すために、このセンターでは、シリア人だけでなくトルコ人も講師や参加者として協力している。服飾のクラスを担当するトルコ人講師がシリア人生徒のつくったワンピースを見せてくれた。とても誇らしげに「この細かいダーツを見てよ! 本当にキレイにつくってるでしょ!」と。

拡大する〈難民格差〉

コミュニティセンターに訪れるシリア難民たちからは、異国の地でもたくましく生きようとする前向きな力が感じられた。学歴や職能があるシリア人は、定職にも就ける。なかにはトルコ人をしのぐ高給とりもいて、シャンルウルファで次々と建設されている新興住宅地には、 そんなシリア人が多く住んでいるそうだ。

もともと富裕でスキルがあるシリア人たちは、異国でもちゃんとやっていける。それは喜ばしいことだが、彼らとそうでない人たちとの格差は広がるばかりだ。もともと貧しかった人たちの生活は、さらに不安定になり、病気や事故といった些細なアクシデントが起きると、坂を転げ落ちるように破綻する。

7年を経て、難民たちはそれぞれの道を歩みはじめた。それゆえに生じた〈難民格差〉が拡大し続けている。

ニスリーンの告白

生活の安定を手に入れつつある〈勝ち組〉も、内心は大きな葛藤を抱えている。

ポジティブ娘のニスリーンも、例外ではない。移動中、彼女に、シリアに帰りたいと思うか、と質問したことがあった。するとニスリーンの表情が突然曇った。トルコに逃げて来る前、故郷コバニで弟がISに殺されたのだという。

「そのとき悟ったんです。シリアはもう私たちのいる場所じゃないって。故郷とはいえ、命 を落とすかもしれないような危険な国に、戻るつもりはありません」

普段は明るく振る舞っていても、やはり、彼女も難民のひとりで壮絶な体験をしている──その事実に殴られたような衝撃を受けた。いまでも体調不良に悩まされ続けているというニスリーン。「もっと強くならなきゃ」という言葉は、同胞だけでなく自分に向けられたものなのかもしれない。

シリア国内では何が起きているのか

7年が過ぎて、難民格差以外にも、より純化された事実がある。

そもそもシリア危機は、アサド政権を倒すための民主化運動に端を発している。混乱に乗じて抬頭したISの異常性に埋もれてしまっていたが、彼らが去ったいま、戦いは本来の姿を再びくっきりと現した。アサド政権率いるシリア政府軍が市民を窮地に追い込んでいる限り、根本的な問題は何ひとつ解決されたといえない。

現政権に対する強烈な怒りと、祖国への報われない想いをふたりのシリア難民が語ってくれた。

マイサーの場合

29歳のマイサーは、ダマスカスにいる親戚と、ときどき連絡をとる。だが、すべての電話は当局に盗聴されているため、会話は表面的なものだ。アサド政権について語ることはできない。 そんなことをすれば、親戚の身に危険が及ぶからだ。

「私の心はいつもあなたたちといっしょ。戦争が終わったら、絶対に会おうね」──この程度の会話が精一杯だ。

シャンルウルファの冬は寒い. 気温がマイナスまで下がり, 雪が降ることも. 2018 年1月撮影

子供から大人まで、男性はみんな徴兵されてしまったので、ダマスカスでは女性と老人の姿しか見えない。街を歩いていると、アサド政権を支援するイラン軍兵士に、3分にいちどはIDの提示を求められるそうだ。

「3分ごとですよ、まるでマンガの世界みたいでしょう?」と彼女はいかにもバカバカしそうに笑った。

マイサーは、かつてダマスカスの大学で化学を教えていたという。シャンルウルファに避難してきたのは、2013 年の3月。知的で落ち着いた喋りかたがいかにも賢そうな、リケジョの雰囲気を漂わせている。

地方の状況は、ダマスカスよりもっと複雑だ。今月はシリア政府軍、来月はシリア自由軍(反体制派)というように、支配勢力がころころ変わるからだ。マイサーの故郷である東部の都市、デリゾールは、大半の街がISの支配下にあり、2つの街だけがシリア政府に掌握されている。 通りを挟んで、こっちはシリア政府、でもあっちはISというわけだ。

「紛らわしいでしょう?」とマイサーはまた皮肉っぽく笑った。

彼女はシリアの状況に失望しきっているのだ。アサド政権は倒れるどころか、いまも罪のない市民を殺害し続けている。にもかかわらず、国際的な和平協議であるはずのアスタナ会議の参加国には、ロシア、トルコ、イラン、に加えてアサド率いるシリアが名を連ねる。現政権が存続したままのシリアには戻れないとマイサーは考えている。

「私はダーイッシュ(IS)に捕まるのも嫌ですが、アサド政権下で牢獄に入りたくもありません。本当の自分を押し殺してまで、シリアで暮らしたくはない」

反体制派だった彼女の兄は、戦争が始まるとすぐに、政府軍に捕まり投獄された。父が保釈金を払ったおかげで、兄は3日後に解放されたが、自分の身に起きたことをひとことも話そうとはせず、そのまま 1 週間ほど部屋に閉じこもってしまった。

「7年の月日がたち、ようやく兄は回復したように見えます。それでも、いまだに自分の身に何が起きたかを話そうとはしません」

だが、たとえ当事者が話さなくても、シリア人なら誰もが知っている。政府の刑務所に収容された者が、肉体的、そして精神的にどれほど陰惨な虐待を受けるか。

「ある人は自分の母親や姉妹を卑猥な言葉で愚弄するように強要されたそうです。これは保守的なシリアの東部や南部では耐え難い侮辱です」とマイサー。

彼女自身もシリアにいた頃は、兄が投獄されたと誰にも言えなかった。いまはこうして話せるが、どんな時間がたってもたとえ海外に脱出しても、この話題はタブーに近い。

「現政権が倒れない限り、兄は恐らくもうシリアには戻れないでしょう。その場合は、兄の そばにいるため、私はトルコに残るつもりです」

ハッサンの場合

2014 年の 9 月にシリアを逃れたハッサン(仮名)。シャンルウルファでは、英語教師だった経歴を生かし、ジャーナリストや支援団体から通訳の仕事を請け負っていた。

2013 年、彼の故郷であるデリゾールが IS に掌握された。

それから 1 年半、ハッサンは戦時中の暮らしに堪えた。電気も水も十分に使えず、食糧や生活に必要な物資は、日に日に手に入らなくなっていった。とはいえ、学校や病院は機能していたし、海外から送金してくれる家族もいたので、何とか暮らしていけた。

だが、2014年、IS 掃討のためにクルド人民防衛隊(YPG)がやって来ると、戦況は一気に激しさを増した。降り注ぐ銃弾の雨に、鳴り止まない砲撃。

戦争が始まって 3 年、「どうする? 逃げる?」という言葉が家族のなかから初めて出た。そしてその次の瞬間には、もうバッグに荷物をまとめて、全員で故郷の街を脱出していたという。

だが、どんなに戦況が悪化しようと、その瞬間までハッサンは自分が難民になる日が来るなんて、これっぽっちも思っていなかった。その日は想像もしないかたちで、本当に突然やってきたのだ。

彼は、シャンルウルファに来てから1ヶ月、戦争のトラウマに悩まされた。ハッサン人生で最悪の時期で、そのときのことを思い出すといまでも気分が悪くなるという。

だが、通訳の仕事を始めると、徐々に日常のリズムが掴めるようになった。トルコに来てからすでに3年半、定職にも就いている。こざっぱりとした身なり、知的で理路整然とした会話、冗談好きな性格。彼には何ひとつステレオタイプな〈難民〉を連想させる要素がない。

あなたは、ここで安定を手に入れたようですね。そう言うと、ハッサンは急にニヒリスティックに答えた。

「トルコに到着したばかりのころは、3 年半経ってもここにいるとは思っていませんでした。 私の生活は傍から見ると安定しているのかもしれませんが、私自身はいまでも悪い夢のなかにいる気分です。

7年前、盛り上がる民主化運動を目の当たりにしたとき、ハッサンの胸は高鳴った。もしかしたら、これで自由が手に入るのかもしれない──でも、だからといって、故郷が瓦礫の山になり、同胞が世界中に散らばって帰れくなってもいいとは、もちろん思っていなかった。

それどころか、シリアがこんなに無残な状態なのに、現政権は依然として存続している。 あの頃、ハッサンは、シリアという国家が健在だったからこそ、自分たちには自由がない、と葛藤を抱えながら生きながらえたくはなかった。ところが、国は無くなったに等しいのに、同じ葛藤だけがいまでも消えずに心中に居残っている。ハッサンは顔を歪めながらこう言った。

「もしこれが戦争の結末なら、ありえない」

失ったのは故郷だけではない。いまハッサンの家族はシリア、トルコ、そしてドイツに離散している。仲の良かった家族は、戦争によって分断されてしまったのだ。

「最も辛いのは、建物が破壊されたことではありません。社会の破壊です。私たちがもとのシリアに戻れる可能性はゼロに近いでしょう」

シリア危機から7年たったいま, アイデンティティの問題に苦しんでいるというハッサン.

居場所と将来を奪われた

ハッサンはトルコに来てからずっと、アイデンティティの問題に悩まされている。トルコはいいところだ。親切な人がたくさんいるし、よい職にもめぐりあえた。でも、ここにいると息苦しくてたまらない。

「私がトルコにいるのは、生き延びるため、ただそれだけです。私は生きていたいんです。
しかし、トルコでは、自分が自分ではいられない。ここは私が生まれ育ったシリアではない し、誰にも本音は話せない。どんなに生活が安定していても、私は自分が自分でいられない ような場所にはいたくはありません。
戦争が始まって以来、心から安心だと思えたことはありません。多くのシリア人が、同じよ うな気持ちを抱えていると思います」

ハッサンは、最近トルコ国籍を申請したという。矛盾しているようでもあるが、トルコは二重国籍を許容しているため、シリア国籍も保持できる。それにパスポートは必要ですよ、とハッサンは笑った。確かに、難民というステイタスは不安定だ。いつ政情が変わって、トルコにいられなくなるとも限らない。そうなれば、仕事も何もかも再び失ってしまう。

シリア人の苦しみは、難民になったその一点の記憶に集約されるわけではない。

まず彼らは、自分が生まれ育った故郷をなくし、家族や友人、学校などのコミュニティを失った。さらに、戦争がなければ続いたはずの平穏な時間や、将来の夢を叶えるチャンスなど、彼らがこれから手に入れるはずだったものまで消えてしまった。

彼らは大切な居場所と約束された未来、その両方を奪われたのだ。

私は空爆で負傷して歩けなくなった、アズィーズの手の平に眠る破片を思い出していた。

多くの人にとってシリアのニュースは、そのときどきで報じられる小さな破片のようなものでしかない。だが、当事者たちには、それは脈々と続く日常だ。日々飛び散るその破片は、モザイクのように繋ぎ合わされ、7年という歳月をかたちづくった。

その破片のひとつひとつが、シリア難民それぞれの体や心の深部に残り、いまでも彼らを悩まし続けている。