UFOオカルト伝説の謎 01.ケネス・アーノルドのUFO目撃事件

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UFOオカルト伝説の謎 01.ケネス・アーノルドのUFO目撃事件

ケロッピー前田による新連載『UFOオカルト伝説の謎』。第二次大戦後にはじまるUFOブームを現代の視点で捉え、人間がオカルトを求める心理を探りたい。第一回目は最初のUFO目撃者、ケネス・アーノルドを中心に紹介していく。UFO目撃事件を紐解くことで、米ソ冷戦下における米国社会が抱えた闇までもが浮き彫りになる。

社会現象としてのUFO

2017年1月、CIAが約1200万件もの大量のUFO機密ファイルを公開して大きなニュースとなった。また、去年のアメリカ大統領選挙の際は、ヒラリー・クリントン(Hillary Clinton)がUFO情報公開を公約に掲げるなど、UFO関連ニュースは人気コンテンツとして、各種報道メディアで頻繁に取り上げられている。

その理由は、UFOがポップカルチャーのアイコンとして広く受け入られているからである。また同時に、一部に熱狂的な信奉者がいるものの、以前のような脅威や恐怖の対象ではなくなっているからでもある。

かつてのUFOブームは、冷戦時代、米ソ核戦争を恐れる西側諸国の市民たちの集団心理を反映したものである、と分析されている。また、過去に〈決定的〉とされた証言や物証などでも、偶然やイタズラによって生まれ、マスメディアが誤読したものが拡散されてきたのも知られている。それでも、われわれがUFOに惹かれるのは、個々のオカルト事件には、人間ならではの恐怖心や純粋な内面が映し出されているからに他ならない。

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インターネットが主流なメディアとなった現代、世界中がテロや経済危機に怯えながら暮らしているからこそ、UFOや宇宙人を信じていた時代にノスタルジックな安らぎを求める心理もあるだろう。そればかりか、ますます複雑化する現実社会を生き抜くためにこそ、オカルティックな人間の潜在力を頼りにしたくもなるのだろう。

この連載では、第二次大戦後にはじまるUFOブームと、そこから生まれたオカルティックな神話に焦点を当て、21世紀のネット時代の視点で、それらの社会現象を俯瞰していく。同時に、UFO現象に魅了される人間の心理を読み解き、戦後の社会史やメディアの変遷にまで踏み込み、UFOを通じてみえてくる人間と社会の不思議に迫ってみたいのである。

6月24日、私はUFOを見た!
1947年6月24日、世界的なUFOブームを巻き起こす要因となる最初の目撃例、〈ケネス・アーノルド(Kenneth Arnold)事件〉が起こる。その日の午後、ワシントン州レイニア山付近を自家用プロペラ機で飛んでいた若き実業家のケネス・アーノルドが、高速で移動する9つの謎の物体を目撃した。

目撃された物体は、眩しく光を反射する材質でできており、一直線上に編隊を組んで、驚くほどの速さで飛んでいた。アーノルドは、山の地形と自分の時計を頼りに、その編隊の全長は約8キロ、一機の長さは約15メートル、その編隊の飛行速度は音速の2倍を超える時速約2700キロであった、と報告している。当時、音速を超えるジェット機は登場しておらず、その物体のスピードが事実であるなら驚くべきものである。実際、最初のアーノルドの目算が間違っていれば、このデータの真実味はすべて崩れ去る。それでもアーノルドはベテラン操縦士として信頼されていたし、彼自身、それを物質的な存在として認知しており、その確信には疑いの余地はないと信じていたようだ。

彼は、自分が見た奇妙な飛行物体について飛行機仲間と話したり、自分でもいろいろと考えた結果、それは米軍もしくは他国の秘密兵器かもしれないという結論に達した。第二次世大戦の記憶が生々しいこの頃、宇宙人の乗物が空を飛んでいるなどとは思いも寄らないものであった。

アーノルドは、オレゴン州ぺンドルトンに到着すると、真っ先に地元のFBI支部に向かったが閉まっていたため、地元新聞『イースト・オレゴン(East Oregonian)』を訪ねた。そこで記者のノーラン・スキッフ(Nolan Skiff)とビル・べケット(Bill Bequette)に、一部始終を報告した。アーノルドはのちに、「飛行物体は、投げた皿が水面をはねるように飛んでいた」と表現したが、その言葉は〈空飛ぶ円盤(フライング・ソーサー)〉となって配信された、と語っている。彼は、自分が目撃した飛行物体について、三日月型で尾翼のない全体が翼になっている形状のもの、と説明している。

アーノルドの目撃事件は、翌日の午後には配信され、26日にはシカゴの『サン(Sun-Times)』紙などでトップを飾り、全米の新聞各紙で報道されるほどの大事件に膨れ上がった。

そして、その直後から、空飛ぶ円盤の目撃報告が全米で相次いだ。大戦中やそれ以前からフー・ファイターやゴースト・ロケット、幽霊飛行船など、謎の飛行物体の報告は多数あった。しかし、アーノルド事件をきっかけに、メディアが〈空飛ぶ円盤〉という言葉を広めたため、誰もが空を見上げ〈空飛ぶ円盤〉を探そうと躍起になった。そうすると、不思議なことに、みんなが空中に何かを発見してしまったのだ。実際、そのほとんどは見間違いであっただろう。それでも、世界大戦後間もない時期に、次なる戦争到来の予感に誰もが怯えていたのは事実に違いない。他国の秘密兵器かもしれない謎の飛行物体の目撃というニュースに、全米の市民が敏感に反応してしまったのだ。それほど、人間の意識は弱く、メディアに翻弄され易いものなのである。

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そして、いまや、6月24日は〈国際UFO記念日〉となっている。また、その2週間後には、のちにUFO墜落&宇宙人死体回収が大きく疑われた〈ロズウェル事件〉も起こっている。

UFOは他国の秘密兵器か?
1947年、米ソが核兵器による全面攻撃を前提に、戦闘なき戦争が続く冷戦に突入しつつある時期であった。20世紀を迎えて以来、すでに2つの世界大戦を戦ってきた欧米諸国では、人類を滅亡させる可能性すらある核兵器を用いた第三次世界大戦の勃発が、最も恐れられていた。そして、まさにこのとき、ソ連はアメリカからスパイ行為によって入手した原爆や水爆に関する情報を利用して、その製造に躍起になっていたのである。

1947年7月8日、ムロック飛行場(現エドワード空軍基地)で複数のパイロットや軍関係者による謎の飛行物体の目撃報告が多発する。市民からの通報であれば、デマや見間違いの可能性も高いが、軍内部の関係者たちから目撃の報告が寄せられるようになると、それを無視するわけにはいかない。実のところ、ソ連が核開発を推進しているばかりか、さらなる秘密兵器の飛行実験を行なっている可能性も考えられる。特に米軍基地周辺での目撃報告となれば、ただ事ではない。

ナチスが開発していた最新のテクノロジーは、ミサイル技術の原型となったV2ロケット、ジェットエンジンばかりでなく、円盤型の飛行物体の設計開発にまで及んでいた、と今では知られている。しかし、ナチスの技術がその敗戦と同時に、どれほどソ連に持ち去られたのか、当時はほとんどわかっていなかった。だからこそ、アメリカ政府や軍関係者ですら、基地周辺で目撃された飛行物体がソ連の秘密兵器である可能性を疑っていたとしても不思議はない。

陸軍航空隊から、空飛ぶ円盤の目撃事件について調査するよう、極秘指令が発せられた。そして、報告された円盤目撃情報は、ライト・パターソン基地内にある航空兵站資料司令部技術情報部に集約されるようになった。

7月12日、技術情報部の調査官として、フランク・ブラウン中尉(Frank Brown)とウィリアム・デヴィットソン大尉(William Davidson)が、ケネス・アーノルドを訪ねた。彼らはアーノルドに絵まで描かせて詳しく説明させたうえで、目撃に関する詳細を他言しないよう忠告した。それはもちろん、技術情報部の調査自体も極秘指令によって実施されていたからだ。

その後、1950年には、アーノルドは軍関係者に対する講演を依頼されるが、直前で中止された。そのとき、彼は自費出版で『The Flying Saucer As I Saw It(私が目撃した空飛ぶ円盤)』という小冊子までつくり、講演に備えていた。表紙は、彼が目撃したという三日月型の飛行物体のイラストレーションだった。講演中止の理由について、彼は、軍は謎の飛行物体に非常に興味を示しながら、一方で、飛行物体の存在が世間に〈真実〉として信じられた結果、ある種の宗教的熱狂が生まれ、国内に動乱が発生するのを恐れていた、とコメントしている。

米国は建国200年ほどの、多民族からなる移民国家である。1950年代にはまだ禁酒法が残り、共産主義の封じ込めやそれに伴う赤狩り、根強い黒人差別などの問題を抱えていた。もし、ここに空飛ぶ円盤に対する過剰な恐怖や期待から市民が暴走すれば、国内はめちゃくちゃになってしまう、とも懸念されていたのだろう。

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実際のところ、60年代になると、公民権運動やベトナム反戦運動などによって米国は分断され、大きな混乱を巻き起こした。その時代にはまた違ったかたちで、アメリカ市民の怒りや恐怖がUFO神話に投影されたのである。

1947年9月、陸軍航空隊は、米国空軍として独立し、その新たな指揮官が空飛ぶ円盤に関する調査報告書を要請した。ネイサン・トワイニング中将(Nathan Twining)が、その任務に就き、同年12月30日、〈国家機密に関わると推察される大気圏内現象のすべての報告を収集、評価し、関心を持つ行政機関に配布する〉ことを目的とした調査組織が発足する。その組織は〈プロジェクト・サイン〉というコードネームが与えられ、空軍直属のUFO調査専門機関となった。空軍はそれから22年間に渡って、軍事目的でのUFO調査、情報収集を続けている。

このとき、すでに空軍は公には空飛ぶ円盤を自然現象やデッチ上げだ、としながらも、ソ連の秘密兵器、あるいは異星人の乗り物である可能性も含めて極秘に調査を進めていた。49年、同調査組織のコードネームが〈プロジェクト・グラッジ(怨恨)〉に変更されるが、その頃からUFO問題に関しての国民の過剰な反応を懸念する傾向が、さらに強まる。そして、当初、空飛ぶ円盤という名称で広まった謎の飛行物体は、50年代初頭から、アメリカ空軍によって、〈UFO(未確認飛行物体)〉と呼ばれるようになった。この調査組織は、52年3月からは〈プロジェクト・ブルーブック〉とコードネームが変更され、最終的に約1万2千件もの調査資料が作成された。

このようなアメリカ政府当局によるUFOの極秘調査は、UFOを目撃した人のもとに、わざと目立たぬ格好の調査官が訪れたり、目撃談を世間に広く公言しないよう忠告したり、挙句の果てに、政府当局がUFOがデッチ上げであると吹聴したりもした。だが、その政府の活動が災いし、「政府は何かを隠しているんじゃないか」と市民を煽る結果になってしまった。そして、そのような政府当局のどっちつかずの対応は、調査組織内部にも亀裂をもたらし、関係者の情報リークを誘発した。また、当初から米国のUFO問題は、陰謀論的解釈を生んでいた。それが「アメリカ政府はUFOの存在を隠しているのではないか」という疑惑を生んでしまう。

米国UFO神話の映画化ともいえる『未知との遭遇』(Close Encounters of the Third Kind, 1977)で、政府がUFOの存在を隠蔽している設定になっていたのも、米国政府によるUFO調査の隠蔽、という歴史的事実があるからだ。だが、ここで誤解しないで欲しいのは、隠蔽は、米ソ冷戦を背景にした軍事的要請から発生していた、という事実である。

UFO研究家となったアーノルド

UFO目撃当時、ケネス・アーノルドはグレート・ウエスタン消防器具供給会社を経営し、パイロットとしてもベテランであった。6月24日も、ワシントン州チェハリスからヤキマへと向かう途中、前日に消息を絶った海兵隊の輸送機を捜索するために、カスケイド山脈のレイニア山付近に寄り道していた。アーノルドのUFO目撃談が多くの新聞で取り上げられたのは、彼が社会的にも信用に足る人物である、とみなされたからだ。そして、アーノルドは自分が目撃した謎の飛行物体が、敵国の秘密兵器であるかもしれないという確信があればこそ、勇気を持って〈自分が見たありのまま〉を公表し、新聞や軍にまで正式な調査と解明を求めていたのである。

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アーノルドは、UFO目撃以降、まさに伝説をつくった人物として賞賛と批判を受け続けた。彼は、何か不思議なものを目撃した事実について、絶対の自信を持っていたにもかかわらず、それが何なのかを説明できないゆえに世間の嘲笑の対象となってしまった、と理解していた。いつしか、アーノルドは自分と同じようにUFOを目撃したと主張する人たちと交流するようになり、彼自身も積極的に情報を収集し、UFO研究家になった。

1948年春、新雑誌『フェイト・マガジン(Fate Magazine)』の創刊号に、アーノルドは〈私は空飛ぶ円盤を見た〉を寄稿した。これは彼自身が事件について書いたものとして、現在でも貴重な資料である。この雑誌の編集長レイモンド・パーマー(Raymond Palmer)は、人気のSF雑誌『アメージング・ストーリー(Amazing Stories)』の編集者として名を馳せ、現実の空飛ぶ円盤の目撃事件に、SF小説のイマジネーションを結びつけ、世間のUFOブームをうまく煽っていた。そして、パーマーこそが空飛ぶ円盤をSF的な宇宙人のストーリーと結びつけ、UFOは宇宙人の乗り物である、というアイデアの原型をつくったとも言われている。

1952年、アーノルドはパーマーとの共著『Coming of the Souecer(円盤の来訪)』を出版している。この本は大きな反響を呼び、アーノルドは印税のおかげで自らのUFO研究が大いに進んだ、と語っている。

60年代に入ると、アーノルドはUFO問題からしばし離れた。そして、1962年、アイダホ州知事選挙に立候補、残念ながら落選すると、同年の副知事選にも挑み、大敗している。その後、彼は政治活動とも関わり続けるが、同時にUFO研究を続けた。もしかしたら、アーノルドは、UFO目撃事件がなければ、政治家として大いに活躍していたかもしれない。実際、アーノルドがUFOを目撃した直後に米軍調査官の訪問を受けて以来、国家の監視対象としてスパイされ続けている、と告白している。そればかりか、嘲笑、逆宣伝、妨害など、意図的な嫌がらせにも度々悩まされてきたという。

それでも、アーノルドは自らのUFO目撃を確信し、その後も何度もUFO目撃を経験していると主張してきた。

1977年、『フェイト・マガジン』は、その30周年を記念して第1回〈国際UFO会議〉を開催した。アーノルドは、ひさびさに公共の場に姿を現してUFO問題について講演した。そこで彼は、UFO問題に対する世間の不理解を大きく嘆いた。「私は確かに何かを見たんだ。数百人のパイロットたちも見ている。私たちは、それをそのまま報告しただけなんだ。そして、このことを真剣に考えてもらうためには、1500万人の目撃者がいないとダメだというのか? 正気か? 錯覚とか、蜃気楼ではない。空飛ぶ円盤だろうが、金星人だろうが構わない。とにかく、私は見たんだ」

彼は、UFO伝説をつくった人物であるとともに、世間のUFOブームに巻き込まれ、受難した人物でもあった。1984年、アーノルドは大腸ガンによってこの世を去っている。

その後の調べで、1947年にアーノルドが目撃した9つの連なった飛行物体は、米軍がソ連の核実験を探知するためにつくった観測用の特殊な気球であったと言われている。この計画はプロジェクト・モーガンと呼ばれ、巨大なスカイフック気球を複数連結させして上空にあげるというもの。高性能な音響センサーを使って、ソ連領内で密かに行われる核実験を、その音を傍受し調査しようとしたのだ。その気球は最大で直径100メートルとも言われる。しかし、当時、その気球の存在自体も極秘だったため、アーノルドの生前には目撃したものの正体が明かされなかった。

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しかし、飛行物体の正体がわかったからといって、アーノルドの名誉はなんら傷つくことはない。確かに彼が目撃したものは存在し、彼が自らの信念を貫いたことこそが、何か不思議な飛行物体を見てしまった人たちを大いに励ましたのである。

ケネス・アーノルドは、最初のUFO目撃者に相応しい、人格と能力を持った人物だったのである。

さて、アーノルドの事件に始まるUFOブームは、驚くほど急速に全世界に拡散していく。そして、1950年代には、UFOの正体すらわからないうちに、宇宙人と会ったと自称するコンタクティと呼ばれる者たちが続々と登場する。まさにそれは、UFO目撃などを通じて、政府当局が最も恐れていた宗教的な熱狂をつくり出そうという試みであるともいえる。

次回はコンタクティの代表的存在であるジョージ・アダムスキーの実態に迫ってみたい。

さあ、あなたも空を見上げよ!

UFOオカルト伝説の謎 02.ジョージ・アダムスキーの空飛ぶ円盤同乗記(前編)はこちら

UFOオカルト伝説の謎 02.ジョージ・アダムスキーの空飛ぶ円盤同乗記(後編)はこちら