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パリの黒人ゲイクラブで再燃するダンス、ヴォーギング

パリの黒人ゲイコミュニティで流行する「ヴォーギング」ダンス。その背景には、人種差別と同性愛者に対する厳しいまなざしがあった。それをはねのけ自分を貫き通そうとするダンサーたちの強い意志を捉えた。

「ヴォーギング」という言葉を知らない人も多いだろう。簡潔に言えば、腕を大きく動かしながら、雑誌の表紙のようにポーズを決めたりするダンスのジャンルだ。日本だと、Perfumeのダンスが近いかも知れない。

Perfume『不自然なガール』MV

ヴォーギングは、ニューヨークに住む黒人のゲイコミュニティで生まれたダンススタイルで、80年代後半に流行した。かつて一世を風靡したこのダンスが今、パリのアンダーグラウンドで注目を集めている。VICEは、ヴォーギングをパリに蘇らせたドラァグクイーン(脚注①)ラッサンドラに取材した。映像からは、自分の生き方を貫く強さが伝わってくる。彼女たちを理解するためには、日本であまり話題にならない人種や同性愛に対する偏見について知らなければいけない。映像とは別に、ヴォーギングカルチャーの歴史を振り返ってみたい。

ヴォーギングの歴史は、1930年代にハーレムで暮らす黒人のゲイコミュニティから始まる。この時期は「ハーレムルネッサンス」(脚注②)とも呼ばれ、南北戦争後ニューヨークへ移り住んだアフリカ系アメリカ人や、カリブ地域からの移民の間で芸術運動が盛り上がっていた。しかしニューヨークでは黒人や同性愛に対する差別感情も強く、男装や女装、同性のペア・ダンスなどが禁止されていたため、コミュニティの人々は内輪でミスコンやファッションショー、ダンス大会などを開いて楽しんでいた。

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ビリー・ホリデイ『Strange Fruit』

1960年代後半になると、ゲイコミュニティでファッションショーやダンスバトルなどを織り交ぜた「ボールルーム」という文化が興隆する。「ハウス」あるいは「ファミリー」と呼ばれるいくつかのグループに分化し、ダンスの練習や共同生活をするようになった。ファミリーの名前をもらうことは、仲間として認められた証拠であり、ヴォーギングダンサーとしての実力を示す証ともなった。この伝統は現在も続いている。中でも名門となったのは、「ニンジャ」ファミリーだ。創始者であるウィリー・ニンジャは、スーパーモデルや雑誌ヴォーグの編集者をイベントに招くことで、それまで閉ざされていたボールカルチャーを解放した。ニンジャも登場するドキュメンタリー映画『Paris is Burning』が1990年に公開されると、映画界から大きな注目を集めた。映画にはニューヨークで生きるドラァグクイーンたちが多く登場し、ピークを迎えたヴォーギングカルチャーの熱が伝わってくる。彼女たちがそれぞれ抱えている問題を通じて、AIDSや貧困、移民に対する差別といった当時アメリカで見えにくくなっていた問題を描き出したとして高い評価を得た。

ヴォーギングがメジャーになったのは、ポップミュージックの影響が大きかった。セックス・ピストルズの仕掛け人として知られるマルコム・マクラーレンは、映画が公開される1年程前に『Deep in Vogue』という楽曲を発表し、1989年のビルボードチャートで1位を獲得。翌年マドンナが発表した『Vogue』で、ヴォーギングはサブカルチャーからメインストリームに押し上げられた。

マルコム・マクラーレン『Deep in Vogue』

マドンナ『Vogue』

ポップミュージックにあるヴォ―ギングは、本映像に登場するラッサンドラたちの踊りとは温度が違うように見える。彼女たちの身体から発せられる動物的な熱は、映像からでも伝わってくる。人形のように踊らされるPerfumeと、自分の存在を肯定するために踊る彼女たちを見比べてみると、それぞれが置かれている社会的な状況が透けて見えるかもしれない。

Text by Kana Inamura
Video Translation by Narumi Iyama

(脚注①)ドラァグクイーン:男性が女性の性を過剰に演出するパフォーマンス。「女性のパロディ」あるいは「女性の性を遊ぶ」ことを目的としており、生物学上の性別に問わず、ドラァグクイーンとなることが出来る。

(脚注②)ハーレムルネッサンス:1920年から30年代にニューヨークのハーレム地区で花開いたアフリカ系アメリカ人による文化運動。第一次世界大戦後にもたらされた好景気は黒人社会にも影響を与え、ジャズや文学、舞台などを含む多様な芸術文化が発展。マーカス・ガーヴェイなどが精神的指導者となった。