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綾野剛演じる悪徳警官のモデルとなった伝説の男が語る、腐臭漂う警察の実話

「警察官にはなりたくなかった。補導されてるし、ぜったい嫌でした」
Photo by Hiroshi Ikeda

リアル・日本で一番悪い奴ら。北海道警察銃器対策課と函館税関は「泳がせ捜査」と称し、覚醒剤130キロ、大麻2トンを「密輸」。主導したのは、100丁以上の拳銃を押収し、「銃対のエース」と讃えられた稲葉圭昭警部だった。覚醒剤使用で逮捕後、8年の刑期を終えてシャバに出た稲葉は、自らの罪と組織ぐるみで行なわれた違法捜査の数々を告白、事件の風化に抗っている。

稲葉圭昭は1953年10月、北海道沙流郡門別町(現日高町)に生まれる。営林署に勤めていた父親は転勤が多く、稲葉家はその後、瀬棚町(現せたな町)、室蘭市、厚沢部町など、道内を点々とする。稲葉は父親に3歳から柔道を仕込まれ、成長とともに腕を上げ、そのことが警察への道を切り拓いていく。

── 柔道に打ち込んでいた少年時代の話からお聞きしたいのですが。

倶知安中学に2年生で転校して柔道部に入りました。倶知安は羊蹄山の麓にある小さな町です。2年の3学期の終わりに札幌へ昇段試験を受けに行き、5人抜きをやって初段を取りました。それを見ていた道警の師範が、「俺も倶知安出身だ。お前、高校決めたのか?」と聞くんです。決めてないと答えると「じゃ、北海行け」。すぐに北海高校の先生に会わせてもらって決まっちゃった。

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── 北海高校は柔道の名門校ですね。そこで稲葉さんは番長だったとか。

みんなが言ってただけです。

── 高校は札幌市内ですから盛り場を遊び歩いたのでは?

1年から3年のインターハイが終わるまでは、朝昼晩ずっと稽古で遊ぶ暇なんてないんです。当時は先生がやってる道場の寮に寝泊まりしてました。朝4時半からバスの時間の直前まで稽古して、朝飯をかっこんでバス停に走る。1時間近く車中で揺られ、学校に着くと授業中ぐっすり寝て、3時に授業が終わると道場に直行、すぐに稽古です。6時に終わってバスで帰って夕飯食ったら9時過ぎまで稽古。毎日、気持ち悪くなるほど柔道に打ち込みました。ほとんど休みはなく、たまに先生の許しが出ると日曜日に映画を観に行ったぐらいです。

── 1953年生まれの稲葉さんの高校時代は69年から71年ですね。柔道から解放された日曜日にどんな映画を観ましたか?

高倉健や菅原文太の任侠映画です。あのころは東映の映画館で3本立てをやってました。でも、3本いっぺんに観ちゃうとグチャグチャになってわけわかんなくなるんだよね。洋画は観た記憶がないです。

── 補導歴があるそうですね。

インターハイが終わって遊びを覚えたてのころでした。喧嘩や恐喝、万引きなんかが大好きでね、いつも友達とスリルを味わってました。いまは男女共学の進学校で簡単には入れないそうですが、当時はメチャクチャな男子校でした。街を流しては喧嘩ばかり。補導されたときは札幌駅で、なんで喧嘩になったのかは忘れたけど相手の高校生を脅かして殴って、「お前ら、ナメんなよ」って言って帰ろうとしたら大人に声をかけられた。「ちょっと待ちなさい」と。悪いことにそれが私服の鉄道公安官 * で補導されちゃった。後日、札幌中央署に呼び出されて取り調べです。

── そのころ、将来どんな仕事に就きたいと思ってましたか?

警察官にはなりたくなかった。補導されてるし、ぜったい嫌でした。教員免許を取って柔道の指導者になろうかと、うっすら考えていたぐらい。柔道の特待生で東洋大学に入って教職課程は取りました。でも、教育実習の費用が3000円かかるのがわかって、カネないし、面倒くさくなってやめちゃった。

── しがらみもあって柔道の特別採用で道警に入ります。なりたくなかった警察官になってみていかがでしたか?

1976年4月に入り、10月にすすきの交番に配置されてすぐのころ、先輩と警邏(けいら)に出ると、すすきの交差点の真ん中に穴が開いてたんです。北海道は雪の影響で、よく道路が陥没します。「稲葉、参報出しとけ」と先輩に言われました。参考報告というA4サイズの用紙に状況説明と補修工事を依頼する文を書いて交通課に提出し、翌日に同じ場所を通ったらもう直ってた。警察ってスッゲエなぁ〜と感動しました。当時は、22歳の兄ちゃんでしたから無理ないですよね。

警察官になった翌年の1977年4月、稲葉は柔道特別訓練隊員として道警本部警備部機動隊に配属される。78年に道警が全国柔剣道大会で優勝したのを期に柔道を引退し、79年8月に道警本部刑事部機動捜査隊に異動。機捜でエス* を使った捜査手法を叩き込まれ、一癖も二癖もあるエスたちとの「信頼関係」を築いていく。84年4月に巡査部長に昇任し、札幌中央署刑事第二課暴力犯係主任、88年4月より北見署刑事課暴力犯係主任。90年4月に警部補に昇任し、旭川中央署刑事課暴力犯係主任となる。

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── 機捜の任務はどういったものですか?

札幌市内の夜間の捜査態勢を強化し、殺人や強盗などの重要突発事件に対応するために組織されました。札幌市内には7つ警察署がありますが、どの署も泊まりの刑事が少なかった。当時、一番多い札幌中央署でも7人ほど、小さい署だとせいぜい3人。それじゃ事件があっても対応できないから機捜ができたんだけど、課せられたノルマを達成するための点数稼ぎをするような方向にズレていったんです。

── 罪状と逮捕した相手によって点数が決まっていたそうですね。稲葉さんの著書『恥さらし 北海道警 悪徳刑事の告白』には、〈覚醒剤の所持で逮捕すると、一〇点。それが五グラム以上だとプラス五点〉などと実例が挙げられていて、設定の細かさに驚きました。2人組で捜査するため、ペアで月30点以上挙げるのがノルマになっていて、達成できないと罰則もあったとか。

俺が機捜に行ったときにはすでにそうなっていて、「稲葉、110番じゃメシ食えんぞ」と直属の上司に言われたんです。「とにかくエスを作れ。稲葉さんという役所(警察署)にエスが電話をかけてくるようになったら、お前もやっと一人前だ」と。そのころは上司に言われたことをスポンジのように吸収して即実行してました。

── ヤクザや水商売関係者たちに名刺を配りまくります。『恥さらし』を映画化した『日本で一番悪い奴ら』でも面白く描かれていました。

あの名刺は、知り合いのヤクザのアイデアなんです。俺はそいつから兄貴と呼ばれてました。「兄貴、俺はヤクザ辞める。印刷屋に勤めるから名刺作ってくれ」と言うので「好きなの作ってこい」と言ったら、いろんなのを次から次へと持ってきた。ステッカーになってたから、すすきののパチンコ屋やサウナ、スナックなんかにベタベタ貼って。みんな欲しがったんですよ。

── 魔除けのお札みたいですね。

そうそう。サウナの横に公衆電話がダーッと並んでいて、そこにも貼りまくりました。

── 『恥さらし』に〈私はエスを作るために、まずは指名手配犯の被疑者を追って、聞き込みを繰り返し、その指名手配犯の知り合いとはほぼ全員と接触しました。〉と書かれています。なぜ、彼らとの接触がエス作りに繫がるのですか?

人を覚えないことには始まらないから。指名手配犯を捜すには、いろんな人間に会わないといけない。その一人ひとりから枝分かれした人の繫がりもあって、すべてが人脈になる。ひとりを追えば、それだけ人を覚えられるんです。

── エスになる人とならない人をどうやって見分けるんですか?

簡単に言うと、友達を作る感じ。なんとなく気が合うというか。最初からこいつをエスにしようと思って近づくことはなかったですね。何か情報くれたらいいな、ぐらいの気持ちです。

── エスから情報を取るときはどんな気持ちですか?

相手次第、ケースバイケースです。例えば、ヤクザの抗争事件が起きたときの情報は末端の組員ではわからないから、必然的に幹部クラス以上が相手になるじゃないですか。組織内でのエスの地位によっても、気持ちや心構えは変わってきます。また、必要な情報に応じてエスは異なります。マル暴だったらシャブの情報だって取らなきゃなんないし。少し話はズレますけど覚醒剤の場合は、山口組、稲川、住吉、極東のように組織が異なっても全部繫がってるんです。ある組織の奴が別の組織に平気でブツを流しちゃう。

── 組長から末端の組員まで全員が、稲葉さんのエスだった組があったそうですね。

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いまでも何人か付き合いがあるけど、ほとんど堅気になりました。ジンギスカン屋の親父とか。

── 生活保護で暮らす覚醒剤常用者のおばあさんのエスもいた。映画でも印象的なシーンでした。

俺が若いころの話だから、たぶんもう亡くなってますね。出会いはガサをかけたときで、座布団の下にシャブを隠してた。「ババァ、どけよ」と言っても動かないので無理矢理どかしたら出てきた。それからよく電話をかけてくるようになって、指名手配のヤクザの居場所なんかを教えてくれました。映画観たら思い出して懐かしかったです。

── 機捜の次はマル暴刑事になります。1991年に稲葉さんが旭川で捜査したヤクザの射殺事件について話していただけますか。

旭川のある組織が山口組の傘下になったんです。それがきっかけで、その組織の総長と最大派閥の組長が対立し、「総長が組長のタマを取る」という噂まで聞こえてくるようになった。でも、まさか俺たちの耳に入ってるのにやらねぇだろ、と高を括っていたら本当にやった。組事務所の2階で定例会をやっている最中に発砲事件が発生し、組長は窓から飛び降りたけど着地したときに骨折、さらに上から撃たれて重傷を負った。俺が組事務所に着いたときには、ひとりの幹部が頭を撃たれて死んでいた。 銃を用意した組員を指名手配し、逃亡を助けた組員を犯人隠避で逮捕したけど、実行犯は捕まらなかった。 発生から1年ほどたったころ、実行犯の内妻が月に一度、札幌に行っているという情報が入って、調べると東区のあたりで高速を降りているのがわかった。電話の設置場所から潜伏先のアパートが判明し、向かいの一軒家を借りて捜査員ふたりに張り込ませた。それで1カ月後に踏み込んで逮捕したんです。 その後、総長を逮捕したけど、共謀共同正犯で起訴することはできなかった。それでも、いままで大先輩たちが誰も捕まえられなかったヤクザの大物を初めて逮捕できて、誇らしく思いました。苦労しましたよ。小技を使わない、きれいな、本当の刑事の仕事でした。……あれが最後だったな。

1993年、警察庁は全国の警察に銃器対策室を設置させる。その背景には90年の長崎市長銃撃事件、92年の金丸信自民党副総裁銃撃事件など、銃器を使った重大事件の発生があった。稲葉は、道警本部防犯部保安課銃器対策室(96年より生活安全部銃器対策課)の銃器犯罪第二係長となる。従来の地道な捜査手法では押収実績を上げられないことに焦った銃器対策室幹部は、所有者不明の拳銃(クビなし拳銃)の押収を認め、手段を選ばず数を稼ぐよう捜査員に指示。稲葉はエスから入手した拳銃を、コインロッカーに入れて匿名で通報したり、自首減免規定* を悪用して所有者ではない人物に話をつけて自首させたり、自作自演や捏造を繰り返しながら拳銃押収のスコアを上げていく。

── 上司から「クビなしでいい」と言われたとき、稲葉さんのなかに反発はありませんでしたか?

クビなしってのは捜査官としては邪道でプライドが許さなかったんですが、「とにかく出せ! 手段は問わない」的な波が押し寄せていましたから。そんなときに上から「クビなしでも構わない」と言われたら文字通り渡りに船でした。さっそくエスたちに電話して、「クビなしでもいいらしいぞ」と言って持ってこさせました。

── 成果を出して出世したかったからですか?

それはないですね。警察社会は昇任試験に受からなければいくら仕事で実績を残しても偉くはなれません。叩き上げの素晴らしい刑事でも仕事を何にも知らない勉強一筋の幹部の指示命令には、それが間違っていても逆らえないんです。

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── 稲葉さんは銃が好きですか?

好きですよ。あれ見てください(部屋の本棚に銃の専門誌『Gun』のバックナンバーが並んでいる)。刑務所にいるとき読んでたんです。なかでは本読むしかやることないんだもん。

── パキスタン人のマリックがエスになったとき、ロシア人マフィアから入手した拳銃を稲葉さんに渡します。その拳銃について、『恥さらし』にはマニアックな記述があります。〈拳銃を確認しに行くと、ドイツ製で二十二口径の回転式八連発銃でした。他の拳銃よりも細い弾丸を使う珍しい銃です。〉と。

珍しいですよ。初めて見ました。アルミニウスというメーカーの22口径で、通常の回転式拳銃は弾倉に5発か6発入るのが、あれは8発。サイズはちょっと大きい。あの拳銃はマリックに持たせて自首させたけど、もったいないよね。

── マリックはどんな人ですか? 当時は小樽で中古車販売業を営んでいたそうですが。

約束はちゃんと守ります。凄くいい奴です。行方がわからなくなってたんだけど、今年になって連絡があったんですよ。いまは栃木で解体業をやってるそうです。息子たちを日本に呼んで仕事を手伝わせて、家も買って真面目にやってる。夏に車で札幌まで来てくれました。

── 久しぶりに会ってどうでしたか?

嬉しかったぁ。大通公園で抱き合っちゃいましたよ。

── どんな話をしましたか?

死んだ(渡邉)司の話とか。

── 渡邉司も稲葉さんのエスでしたが、のちに稲葉さんの銃対課時代の元上司、方川東城夫を脅迫します。「違法捜査をバラしてやる」と。

あれは警察も悪い。俺は情報が欲しくてエスを利用しているという気持ちが常にありました。ズルいのよ。そういう生活してると自分のズルさに……負けちゃうよね。押し潰されそうになるときがある。良心の呵責っていうの? なんて説明したらいいかわからないけど……正直には生きてないですよね。

── 渡邉司はどんな人でしたか?

エスの仕事は一生懸命やってましたよ。でも、司は警察を利用してた。それはお互い様だけど……。常にカネがない奴で、いつも「ビッグになりたい」と言ってました。拳銃や覚醒剤、大麻はもちろん、ブランド物の時計や財布のコピー商品を売ったり、いろんなことをやってました。でも、俺が知らないところで何やってるか、さっぱりわからない。俺は自分のエスから家の場所を聞かないようにしてたから、奴がどこに住んでるのかも知らなかったし。ほかからガサが入ったときにチクったと思われるのが嫌でね。

── 稲葉さんは渡邉司をほかのエスより大事にしていた感じがします。

よく動いたからね。指示したらすぐに実行しましたよ。俺のまわりの評判はあまり良くなかったけど。

1995年の國松孝次警察庁長官狙撃事件ののち、警察の銃器捜査はさらにエスカレートしていった。銃刀法が改正され、コントロールド・デリバリー* と拳銃の譲り受けが立法化。泳がせ捜査やおとり捜査** の過程で密売組織から合法的に拳銃を購入することができるようになった。 稲葉はエスの石上に拳銃を大量に押収できるネタはないかと相談。元ヤクザの石上は知人である関東のヤクザに「拳銃を売ってくれ」と持ちかけ、ヤクザは1丁あたり40万円で石上の話に乗る。その取引を端緒にして密売ルートを洗うという捜査方針が道警銃対課で固まり、警察庁も了承して警察庁登録50号事件に指定、道警と警視庁と千葉県警の合同捜査が行なわれることとなった。稲葉は石上の若い衆のヤクザに扮し、石上とふたりでヤクザに直接会って拳銃を購入する。1996年8月、稲葉にとって初めての潜入捜査だった。

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── 警察官であることを隠して取引相手のヤクザに会ったときの気分はいかがでしたか? バレたら殺されるかもしれないですよね。

ビビりますよ、本当に。おっかないでしょ。現場は浅草のビューホテルでした。あんまり思い出したくないです。いまでもザワザワっとくる。ザワザワくるような経験は何回もあるけど、あのときが一番です。

── 潜入が一番なら、ほかにザワザワきた経験は?

拳銃を暴発させたのが、おっかなかったですね。提出用と密売用の拳銃を。1回はひとりのとき、あとの1回は司と向かい合って座っているときだった。自動式拳銃は弾倉を抜いても薬室に1発残ります。弾が残ってるのはわかってたんだけど、スライドを引いた俺の手が滑ったんです。バンと弾が出て、危うく司を殺すところだった。司は真っ青な顔してました。

── 思い出したくない話で恐縮ですが、潜入捜査の話をもう少しだけ。相手のヤクザに稲葉さんの素性が割れないよう、石上からヤクザの挨拶や言葉遣いの特訓を受けたそうですね。具体的にはどんな。

ひとつ覚えているのは、「面倒みてくださいと言わなきゃダメだぞ」と言われて、「なんでそんなこと言わなきゃなんねぇんだ」と言い争いになった。けっきょく言わなかったけど。ふだん使わない言葉って、急に使えない。無理ですよ。

── ホテルの部屋でのヤクザとの拳銃の取引は、映画では綾野剛が稲葉さん、中村獅童が石上を演じ、緊迫した状況を再現していました。

潜入のことは思い出したくないですね。拳銃をたくさん挙げるには究極の捜査手法だと思いますが。

順調にみえた交渉は、相手のヤクザが稲葉の体の一部に注目したため、一触即発の状況となる。柔道経験の長かった稲葉の耳は畳や相手の柔道着で擦られ、カリフラワー状に変形していた。「お前、柔道をやっていただろ。サツにしか、そんな耳の奴はいない」とヤクザは疑い、稲葉の耳元に拳銃を突きつけ、撃鉄を起こした。「こいつはレスリングをやっていたんだ」と制止した石上の機転で稲葉は殺されずにすんだが、2回の取引で計8丁の拳銃を購入しただけで、それ以上の成果に繫がることなく、命がけの潜入捜査は幕引きとなった。 2000年、石上は稲葉に拳銃の大量摘発の計画を持ちかける。香港マフィアが違法薬物を密輸するのをわざと3回見逃して油断させ、4回目に拳銃を200丁密輸したところを荷受人の中国人もろとも摘発。道警銃対課と函館税関はその計画に乗って合同捜査を開始するが、4月に覚醒剤130キロを石狩湾新港から入れた直後に石上が失踪。そして、覚醒剤の密輸を香港マフィアから聞いた関東のヤクザから稲葉に問い合わせの連絡が入る。稲葉はそのヤクザを石上の共犯者だと思い込んでいたが、そうではなかった。ヤクザは、「石上にやらせたのなら俺にも──」と、今度は大麻2トンの密輸を見逃すよう要求。その代わり拳銃は用意できると言う。

── 大麻の密輸の片棒を担ぐことを求められたとき、断ろうと思いませんでしたか?

上司に報告したら、「ヤクザに会って断ってこい」と言われたんだよね。いまさら何ビビってんだ、と思った。仕方ないから東京でヤクザに会って、「エラい奴らはやめろと言ってるんだけど、関係ないからやっちまえ」と言ったんです。

── 大麻2トンですよ。ビビって当然じゃないですか。

いや、ビビるとかビビらないとかのレベルは完全に超えちゃってる。東京から帰って、「言っときましたよ」と上司には噓の報告をしました。ところがそれから何カ月たっても大麻が入ってこない。「どうなってんのよ」とヤクザに連絡したら8月に入ってきた。上司に「断れって言ったじゃねぇか」と凄く怒られたけど、「来ちゃったもんはしょうがないじゃないですか」と開き直った(笑)。「どうするの?(大麻を摘発したら覚醒剤を)130キロ入れたの喋られるよ」と逆に脅しをかけて。もうイケイケですよ。恐いもんナシ。

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── しかし、けっきょく肝心の拳銃は、関東のヤクザのルートからではなく、稲葉さんがストックしていたマカロフを出します。覚醒剤と大麻の「密輸」に税関まで巻き込んでしまっているから、やるしかなかった。

「どうしても20丁ないとダメか?」と税関の奴に聞いたら「ダメです」と言うから。司をアジトに呼び、その数のマカロフをバッグに詰めて、「明日の朝、ロシア船に置いてこい。そして税関に電話しろ。奴らに花を持たせる。そのあとで道警に電話しろ」と言った。それで司がロシア人とふたりで小樽港に停泊している貨物船に侵入し拳銃を置いてきたんです。

── この2001年4月の小樽港でのマカロフ20丁(および実包73発、サイレンサー1個)の押収をマスコミは大々的に報じ、現在も税関や海上保安庁のホームページに載っていますが、実際は組織ぐるみのヤラセだったということですね。

銃対課のエラい奴にはすべての段取りを報告して、「今日、20丁あがりますから」と言っておいた。そしたら、もともと銃対課では俺の直属の上司で、そのとき警備部外事課にいた中村(均)まで、「俺も乗せてくれと」と言ってきた。外事課は外国人犯罪者を取り締まる部署ですから。

── イッチョカミですね。

最初の段階から中村にも「シャブ130キロ入れて、そのあと道具(拳銃)入れたいんだよね」と伝えてあった。中村は「いいんじゃねぇか、どうせ入ってくるんだからよ」と言っていた。

── 最初に入ってきたその130キロの覚醒剤の話を少し聞かせてください。

1キロずつ小分けされた覚醒剤が130袋あった。半分の65キロを石上が車に積んで、俺の知り合いを運転手にして東京へ走った。残りは俺が預かることになり、ズタ袋に詰めたら3つぐらいになって、ひとりで担げると思ったけど重くて歩けないの。ふつうの65キロと覚醒剤の65キロって違う気がしたよ。置いてけないし、ふらふらになりながら車に積んでアジトまで運んだ。それから俺が1キロ抜いて(笑)、残りは後日、石上が持っていった。

── 1キロのうち100グラムを稲葉さんが所持、残りはエスたちに分配したそうですね。稲葉さんはこの100グラムの覚醒剤が、組織ぐるみで違法捜査が行なわれたことの物証になると考えていたと『恥知らず』に書かれています。

参加した皆さんの足枷しようと思ったけど、ならなかったんだよね。

── 石上はその後どうなったんですか?

北海道にいるらしいよ。

── 会いたいと思わないですか?

思わないね。奴は覚醒剤130キロの代金8000万を香港マフィアに払ってなかった。カネの回収に来た香港の連中に、その半金の4000万を俺が持ち逃げしたと言い訳をしたらしい。俺が刑務所に入って間もないころ、弁護士が面会に来てそう言うから、「そんな馬鹿な話あるわけないじゃないですか。先生、付け馬みたいなマネやめてくださいよ」と怒ったんです。石上が、香港マフィアと繫がっている別のエスを連れて弁護士の事務所に行ってカネを要求したそうだけど、奴らが言うことを弁護士が鵜呑みにしたことも腹立たしかった。

2000年4月に石狩湾新港から陸揚げされた130キロの覚醒剤のうちの900グラムは稲葉のエスたちが密売。その後も稲葉は刑事の立場を利用して覚醒剤や大麻の密売に積極的に加担していく。かつてはカネに困っているエスがいれば自らカードローンで数百万の借金をして貸してやるなどしていた稲葉だったが、密売に関与しだして以降は、その売り上げをエスたちとの交際費のほか、複数あるアジトの家賃、高級車やバイクの購入資金に充てるようになった。

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── 売る側の立場になったわけですが、当時の覚醒剤は品質が安定していましたか? 効き目というか。

入ってくるその時々によって違いました。ゴジラってのがあったな。

── ゴジラ?

打つと、ボワァーッと熱くなるんだけどそれで終わり。熱くなる感じがゴジラっぽいからそう呼ばれたシャブがあった。

── 初めて聞きました。

買っちゃうと、効かなくても返品できないんです。「今度はちゃんとしたの入れてよ」と言うしかない。効かないシャブは捨てずにとっておいて、次にちゃんとしたのが入ったときに混ぜて売ればいい。でも、化学物質だからおかしな反応して溶けることがあるんだよね。ベッチャベチャになっちゃって大損したことがありますよ。

── 大麻は体に合わなかったそうですね。

やってみたけど合わないね。

── ウズベキスタン産の上物をゲットしたと書かれていました。

あれはスッゴイ効きましたよ。一服で床になっちゃったもん。ひとりだったから助けを呼ぼうとしたけど、電話もできなかった。ロシア人マフィアがいつもお土産に、黒いゴミ袋いっぱい入ったのを持ってきてくれたんだよね。そのウズベキスタン産の大麻を桶に開けて、上からハシシをおろし金で削ってまぶし、さらにブランデーを噴きかけて匂いづけして売る。ハシシは缶詰にした状態で入ってきました。

── そのブレンドするやり方は誰が考えたんですか?

自分で。そうやって生乾き状態のまま、50グラムや100グラムごとに袋に詰めて売りました。

── 幾らで売ったんですか?

俺は窓口にならないでエスに売らせてたから覚えてないけど、いい小遣いになったんだよね。元はタダだから。小樽の飲み屋の連中が買いにきてたみたい。

── 面白いことやってたんですね。

香港マフィアから2トン入ってきた大麻は、LPレコードの直径、厚さ5センチほどに圧縮されてました。1枚が1キロで、ビニールで密封された状態で2000枚あった。北海道は大麻がたくさん穫れるから俺たちもやろうとして、刑務所の溶接工場にいた奴に大麻専用の圧縮機を作らせたんだけど全然ダメだった。香港マフィアの大麻はおそらくタイかカンボジア産で、あっちは国家事業のようにやってるのでかなわない。粘り気がある大麻を強くプレスしてあるんだよね。それをペンチでむしってパイプに詰めて吸う。ある会社の社長に1キロ170万で売ったことがある。「高くない?」って言われたけど、「いやいやいや、こっちは危険をおかしてるんだから」って。当時、業者間ではキロ40万ぐらいでした。俺、酒は飲まないけど、一度ハッパ吸ってビール飲んだら、喉から食道を通って胃に流れていくのがわかったもんね。旨いなって! ……ちょっとは真面目な話もしませんか(笑)。

稲葉は2001年4月、警部に昇任、道警本部生活安全部生活安全特別捜査隊に異動となる。第3班の班長として、銃器や薬物に関する捜査をするのが主な任務だった。ところがそのころ、渡邉司が稲葉の銃対課時代の上司で小樽署の副署長になっていた方川東城夫を脅迫。脅しのネタは当時の銃対課の数々の違法捜査だった。稲葉はエスの暴走の責任を取らされ、仕事を干されてしまう。そして01年11月から覚醒剤を使用する。

── 最初は炙りだったそうですが、気持ちよかったですか?

うん、最初はね。スカーッと、曇り空が急に青空になったような。なんにも恐いものないぞ、という感じになるじゃないですか。その後、司に注射してもらったけど、注射は炙りと比べ物にならないぐらい凄い。「全然違うな、おい」って言ったのを覚えてます。でも、続けてると体がどろんどろんになるんだよね。

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── 日常的に覚醒剤を打つようになり、渡邉司をはじめとするエスたちとも疎遠になっていきました。そのころは水に溶いた覚醒剤を注射器で吸い上げて打つのではなく、注射器に覚醒剤をそのまま入れて針を血管に刺し、逆流した血で溶かして打ったこともあるそうですね。

そうそう。知り合いから聞いたのを思い出してやってみたんだけど、すぐに血が固まって針の穴から出ていかないんだよね。ダメだった。

2002年7月5日に渡邉司が覚醒剤を所持したまま札幌北署に出頭し逮捕。その後、渡邉は札幌地裁の勾留尋問で稲葉の覚醒剤の密売と使用を告発する。7月10日、稲葉は覚醒剤の使用罪で逮捕(その後、3件の容疑で再逮捕)。そして渡邉は8月29日、札幌拘置所で自殺* する。

── 稲葉さんのアジトへのガサで92.92グラムの覚醒剤が発見されました。石狩湾新港から130キロ入れた覚醒剤の一部ですね。違法な泳がせ捜査の参加者全員の足枷にするつもりで残していた。

そう。あのブツがそうです。付き合ってた女に「おい、お前預かれや」と言って、ずっと持たせてた。女はアジトのカーテンを欲しがってたから、「やるから取りに来いや。そのときブツ持ってこい」と言ったら夜中に来た。カーテンを渡してブツを受け取ったその翌日に捕まっちゃった。覚醒剤をやりだして半年ほどたったころ、エスのひとりに言われたんです。「親父、シャブやめるときはパクられるときだからね」と。そっか……と思ったけど、本当だったね。言ってくれたエスは、俺が刑務所から帰った翌年に肝硬変で死にました。

── 覚醒剤使用と、覚醒剤や拳銃の不法所持* では、罪悪感がまるで違ったようですね。

恥じてました。取り調べで覚醒剤の小さい所持(単純所持)と大きい所持(営利目的所持)、拳銃の所持はすぐに認めているんです。だけど、使用だけはなかなか認められなかった。認めても詳しい状況は言えなくて、噓をついたり──。

── 『恥知らず』には〈取調官が呆れるようなことも言いました。「注射器を持っていたら、犬が突進してきて刺さったんです」〉と書かれています。

変なことばっかり言ってたよね。認めたくないんじゃなくて……後悔の現れじゃないでしょうか。覚醒剤やってる奴らを俺は機捜のころからずっと捕まえてきました。その経験が跳ね返ってきている。奴らと同じだと認めたくなかった。でも、1回やってしまったらやめられない。当時は目のまえに売るほどあったわけだから(笑)。「こんだけあんのによ、やらねぇ手はねぇだろ」と冗談で言ってたけど、ほんとにやめられなかった。いまはもうやってないよ。

── 次の著書『警察と暴力団 癒着の構造』で稲葉さんは、稲葉事件を扱った2冊のノンフィクション* に事実と異なる記述があると批判しています。例えば、稲葉さんの体に残った覚醒剤の注射の痕についての警察官の証言部分に関し、〈確かに注射針を刺した直後には小さな穴ができていたが、基本的にはすぐなくなった。(中略)私の周りで覚醒剤をしていた者たちを見ていてもそうなのだが、シャブダコは1回できてしまうと、その後、消えることはない。だから、彼らが書いたことが本当なら、それは今でも私の腕にあるはずだ。〉と。

(腕をまくって)きれいな腕でしょ。これは拘置所で自殺に失敗したときの傷。

── ズボンのジッパーの金具で手首をえぐったそうですね。

「何やってんだ、この野郎!」って看守に怒られちゃった。次は首を吊ろうとした。舎房のタオル掛けに上着を掛けて首に巻いたんだけど、体重をかけるとタオル掛けが折れてしまった。自殺防止のためにタオル掛けには切れ目が入っていて簡単に折れるようになっていたんです。自殺未遂で2回も保護房に入れられました。保護房は首を吊れないように天井が凄く高かった。窓がなく、灯りは裸電球だけ。トイレと水飲み場は床にくっついてる。メシを入れる穴がひとつあって、そこに看守の覗き窓がある。保護房では、ずっと寝ていました。そのうちシャブが切れてふつうの精神状態に戻ると、裁判で役所のこと(銃対課ぐるみの違法捜査のこと)を喋っていいのかどうか、凄く葛藤があった。

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── 拘置所で、信頼していた上司が迎えにきてくれると信じていたそうですね。

横になっていても何か音がするたびに、「あっ、次席が迎えにきてくれた」と思って飛び起きてた。まだシャブが効いてたし、おかしかったんだろうな。本気で思ってたんだよ。次席というのは、俺がいた当時、銃対課の次席だった渡辺(英雄)のことです。なぜそう思ったかというと、捕まるまえに「ちょっとメシ食いに行こうか」と会いにきたから。あとでわかったんだけど、エラい奴に言われて様子を見にきたんだね。拳銃であれだけヤバいことをやったのに、まさか裏切られるとは思わなかった。裏切りという言葉が適切かどうかわからないけど……。あの人らはどんなことして俺に拳銃出させたの? 腹は立たないけど、悲しいね、凄く。あの人らは俺より歳上だから道警を退職しているけど、生きてはいる。でも、沈黙を守ってる。言えない理由はわかるけど、あんだけ拳銃の違法捜査をおんなじ気持ちでやっててさ……。いまさらどうしてほしいってのはないよ。ないけども……ちょっと嫌だね。

── 稲葉さんは公判で、銃器捜査での自らの違法行為とそれに関わった上司の名前を出していきます。勇気ある告発だと思いますが、十分ではなかったかもしれません。事実、道警は関係者を、減給、戒告、訓戒、注意などの軽い処分で幕引きしてしまいます。

どうせ誰も信用しないだろうし、他人のせいにしていると思われると考えて、闘いはシャバに出てからと決めました。それで親や女房や子供のことに折り合いつけて、千葉刑務所に行ったんです。人間はいざとなったら折り合いを付けられるんですよ。8年間服役して、帰ったときは両親とも健在でした。親父は3年まえに死にましたが。

── 2016年3月、札幌地裁は道警銃対課が97年に行なったおとり捜査に関して 「重大な違法があるのは明らか」と断定、再審が決定* しました。稲葉さんたち銃対課がマリックや渡邉司らエスを使ってロシア人船員アンドレイ・ノボショーロフに拳銃と中古車の交換を持ちかけ、罠にかけて逮捕した事件です。

アンドレイには本当に申し訳ないことをしたけど、せめて再審が決まってよかった。逮捕の日、「ロシア人が拳銃を持って小樽港に来ました」と俺が銃対課の課長補佐(中村均)に情報を上げると、課長(小林隆一)、次席(渡辺英雄)、指導官(方川東城夫)、課長補佐(中村均)らが道警本部に集まって捜査会議を開き、「アンドレイを船の外におびき出し、マリックを逃がしてから現行犯逮捕する」という捜査方針が出た。それを聞いて俺は、「そんなことできるわけないじゃない。逮捕されたロシア人が黙っていませんよ」と悪態をついた。結果的にはその通りやってしまうんだが……。事件から7年後の2004年、俺は服役していた千葉刑務所から、自分の共犯として、彼ら4人を札幌地検に偽証と有印私文書偽造で告発したんです。とっくに指導官の方川さんは自殺してるんだけど……。出所後、弁護士事務所に彼らの検事調書を見にいきました。課長の調書を読むと、全部、方川さんのせいにしている。

── 稲葉さん逮捕の21日後の2002年7月31日、方川東城夫元銃対課指導官は札幌市内の公園のトイレで首を吊ります。稲葉さんの事件に関し、道警本部で監察官の取り調べを受けているなかでの自殺でした。死人に口なしです。

おかしいでしょ。遺族もいるんだよ。「方川が指揮をしてやった。俺は知らない」だなんて。4人で捜査会議を開いて、どうするかが決まってるわけ。課長の指示なしではやらない。方川さんは気が弱いんだから、独断でやるわけがない。なのに「俺は知らない」と言う。なんで正直に言えねぇんだよ。それが一番悔しいね。ヤクザじゃあるまいし、死人に口なしなんてさ、あり得ないでしょう。

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── 稲葉さんはいま、どうやって生計を立てているんですか?

八百屋と探偵* です。探偵はやりたくなかったんだけど、友達に探偵を紹介してくれと頼まれて、他人を紹介するなら自分でやったほうがいいと思って始めました。下の息子とふたりでやってます。

── どんな依頼が多いですか?

浮気調査や素行調査、家出人捜し、ストーカー対策とか、いろいろです。

── 22歳の稲葉さんは、道路の穴を発見の翌日に書類1枚で塞いでしまう警察の力に感動しました。63歳になったいまは警察をどう思ってますか?

なきゃないで困るし、あっても困るときがある。昔は警察に身を守ってもらったけど、いまは警察から身を守る時代になってきているんじゃないですか。警察官による盗撮や猥褻行為──。このまえ道警でもあったけど、俺が昔やってたのと同じように、調書を偽造して挙げたり。いつ犯人にされるかわからない。 それに道警はいくつか未決事件を抱えているようだけど、捕まえられんのか? と思うよ。昔と比べて警察力は落ちてるから。 警察を恨んでいるわけじゃない。悪いことやったのは俺だし。道警から憎まれてはいないと思うけど、とっぽいサツが俺の車のなかにシャブをポンと投げ入れたら……なんて考えたりもする。気をつけろよ、と忠告されたこともあるし。最初の本を出す直前、いろんなことがありました。家のまえに乗用車が1台やってきて、助手席の男がこちらをカメラで撮った。オマワリだよね。頭にきて尾行したら、車は道警本部に入っていった。向かいの駐車場で張り込みをしていたこともある。婦警っぽい女がうちの八百屋に大根を買いにきたことも。

── これまでの人生を振り返ってどう思いますか?

24歳で刑事になってから犯した違法捜査は数え切れません。道警にいたころは時々苦い記憶が甦って、そのつど「このツケはいつ払うんだろう?」と自問自答していました。「何もかも誰にも知られずに定年を迎えて退職金をいただいて何食わぬ顔して暮らすんだろうか?」と。でも、いまはそんな気持ちはありません。素っ裸にされて何もかも暴露され、秘密もない。こんな気持ちが楽な暮らしはありませんよ。組織の犠牲になったと決めつけて、俺のことを被害者扱いする人がいるけど、それは違うんだよ。『日本で一番悪い奴ら』の白石和彌監督に会ったとき、「稲葉さん、ぜったい楽しんでたね」って言われました。考えたことなかったけど、言われてみたら、楽しんでたのかな。

── 映画、面白かったですね。

面白かったぁ。5回ぐらい観に行った奴いますよ。ポン中だった知り合いが観たら、またやりたくなったって。ヤバいよね。俺が出てたのわかりました?

── えっ、出てたんですか?

綾野剛さんが市電に乗ってるシーンを覚えてますか? サングラスかけて隣にいます。原作にほぼ忠実に撮ってましたね。俺は映画みたいに役所(警察署)ではセックスはしなかったけど(笑)。道警にいたときは、あんな感じで楽しく過ごさせてもらいました。悪いことやったりね。

稲葉圭昭

1953年生まれ。76年に北海道警察に採用され、機動隊に柔道特別訓練隊員として配置される。道警本部機動捜査隊、札幌中央署刑事第2課、北見署刑事課、旭川中央署刑事第2課を経て、93年、道警本部防犯部保安課銃器対策室(のちの生活安全部銃器対策課)に異動。警察庁登録50号事件やロシア人船員おとり捜査、石狩湾新港泳がせ捜査など、数々の違法捜査に関与。捜査費捻出のため、自ら覚醒剤を密売。2002年、覚醒剤使用で逮捕され、懲戒免職。覚せい剤取締法違反、銃刀法違反の罪で懲役9年を宣告される。11年9月、刑期満了。著書に『恥さらし 北海道警 悪徳刑事の告白』、『警察と暴力団 癒着の構造』がある。『恥さらし』は、「日本で一番悪い奴ら」のタイトルで映画化(監督:白石和彌)され、稲葉をモデルとした主人公の諸星要一を綾野剛が演じる。現在は札幌市内で、いなば探偵事務所を営んでいる。