パリス・ヒルトンを褒めちぎる

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パリス・ヒルトンを褒めちぎる

パリスはブロガーたちに「私そのものを顕わすようなボトルのデザインにしたかった」と説明していた。「もし、私が香水のボトルだったら、こんなボトルになるはずなの」

弱冠34才にしてパリス・ヒルトンは、世間の大半が一生かけても成し遂げられない偉業を達成してしまった。2014年に発行された『Women’s Wear Daily』によると、パリスが手がける香水の総売上高は2400億円を超えたそうだ。

この15年間で彼女は、「パリス・ヒルトン」ストア50店舗を世界40カ国でオープン。自身の名を商標登録し「パリス・ヒルトン」というブランド内に17のプロダクトラインを設けた。また、ザ・パリス・ビーチクラブの「アズール(AZULE)」という都市型リゾートマンションを、フィリピンのマニラ首都圏パラニャーケ市にオープン。そして、イタリアの企業、Genesi S.r.l. とともに、パリス・ヒルトン・ジュニア(Paris Hilton Junior)という子供服のブランドを立ち上げ、中国のPearl Worldとは、コスメティック・ブランドを立ち上げた。イビザのナイトクラブ、アムネジア(Amnesia)では、フォーム・アンド・ダイアモンド(Form &Diamonds)という夏のパーティーを3年連続開催し、ホスト兼DJを務めた。

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Facebook、Uber、その他数多のスタートアップ・プロジェクトがIT業界を引っ掻き回す何年も前から、パリス・ヒルトンは、アメリカのセレブ・コミュニティーを引っ掻き回していた。

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雨が降る3月のある日、パリスは、ソーホーの小洒落たブックストアでしか手に入らないような、気取った男性ファッション誌『Adon』の撮影現場にいた。ページのエディトリアル・テーマは聖書。デリラ、聖母マリア、その他、聖書に登場する女性キャラクターを、パリスは演じなければならなかった。演じつつも、撮影現場を仕切るのはパリスだ。「この雑誌、発売はいつ?」といった質問に始まり、雑誌の流通計画、フォトグラファーのアングルにまで口を出す。セットチェンジの最中も、自らのラップトップでDJを始める。選曲内容は、自身の「Come Alive」に始まり、デスティニー・チャイルド「Independent Women」、オアシス「Wonderall」、などなど。

3日間、パリス・ヒルトンと時間を過ごしてわかったのは、彼女が四六時中、お気に入りの曲を流していること。それに加えてもうひとつ、彼女が四六時中、取り組んでいたことがあった。

それは「仕事」。 メイクを施されながらも、彼女は、インスタグラムにその様子をアップする。ポートフォリオの撮影中も、パリスは、彼女の広報担当、ドーン・ミラーに撮影現場の舞台裏を、自身が所有する3つのiPhoneのひとつで撮影するよう指示を出す。

ヒラリー・クリントン同様、パリスは携帯電話が大好きで、全てのデータを専用サーバで管理している。仕事柄、旅行が多いため、専用サーバは彼女にとって必須アイテムだ。パリスは、たいてい、彼女のボーイフレンドであるオーストラリア出身の企業家、トーマス・グロスと旅をするが、彼も自身の仕事で忙しいため、必ずしも、パリスに同行できるワケではない。トーマス不在の穴は、パリスの親友であり専属フォトグラファーでもある、ジェニファー・ロベロ(Jennifer Rovero)、a.k.a.キャムラフェイス(Camraface)が埋める。

Photo courtesy of Paris Hilton

パリスを担当するメイクアップ・アーティスト、ヘア・スタイリスト、スタッフ全員のインスタグラムをフォローしていないユーザーにとって、彼女の「仕事」に対する概念、姿勢は、鼻で笑ってしまう類のモノであろう。しかし、その仕事に付随するあらゆる責務を全うするため、高給取りのセレブはこちらが不愉快になるほど朝早く起き、ビジネスのために毎週、世界のどこかを旅している。1年365日、ジェット機で世界各地を飛び回り、仕事、バケーション、社会活動をひっきりなしに繰り広げるのが、パリスのライフスタイルだ。

「常に世界中を旅しているせいで、時差ボケがなくなった」とパリス。「ルームサービスがあるから、ホテルに泊まるのは大好き。部屋はいつも綺麗に掃除されているし、なんていうか、常にパーフェクトって感じ」

しかし、ここ数年、「ニューヨークは生まれ育った故郷なのに、毎回違うホテルに泊まらなきゃならなくて、それが嫌になってきたの」。そこでパリスは、イーストビレッジに自宅を購入。彼女の部屋には、ゼブラ柄のカウチ、壁には、すでに逝去した、ソーシャライト(社交界の著名人)の肖像画が飾られている。

「私のインテリア・デザイナーが選んだの」と、パリスは低い声で教えてくれた。「これ誰? なんで私の写真じゃないの、ってカンジだった。もちろん、冗談だけど(笑)。今となっては、ソーシャライトに対する憧れなんて全くないから変なカンジ」。その声は、彼女がリアリティ番組『シンプル・ライフ(The Simple Life)』出演時に発していたベビーボイスとは、驚くほど異なるものだった。

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今、パリスが憧れているのは、曾祖父であるコンラッド・ヒルトンだ。日々の業務をこなすため、彼女は、ビバリーヒルズにオフィスを構えている。パリスが手がける香水の販売元である、パルロックス社の代表ドナルド・J・ロフタスによれば、彼女は、ボトルのデザインから、香り選び、広告キャンペーンの企画、すべてのプロセスにおいて協力的だそうだ。「パリスは世界一の働き者だ」とロフタスは賞賛する。パリス自身、彼女以上に香水を売り上げているのは、エリザベス・テイラーぐらいだ、と予想しているが、エリザベスはすでに他界しているので、エリザベスの記録は、いずれパリスが打ち破るだろう。ちなみに、11月に発売された、19作目の香水「Hireness」限定バージョンは、彼女がプロデュースする香水の売上歴代2位を記録した。

18作目の香水「パリス・ヒルトン・リミテッド・アニバーサリー・エディション・フォー・ウーマン」発売を記念するイベント、「ブロガー・ブレックファスト」で、われわれは、精力的に活動するパリスの姿に目を見張った。彼女は1つのテーブルから別のテーブルへ、あちらこちらを颯爽と渡り歩きり、ブロガーたちをもてなしていた。パリスは、ただ歩くのでなく、とにかく、常に、颯爽と歩く。 青いドレスに、スタッズのついた白いジャケットを羽織り、今日のコーディネイトが、いかにキラキラ光る銀の香水ボトルとマッチしているか、解説してまわっていた。

パリスはブロガーたちに「私そのものを顕わすようなボトルのデザインにしたかった」と説明していた。「もし、私が香水のボトルだったら、こんなボトルになるはずなの」

その朝食会の冒頭で、ロフタスは、パリスの香水ビジネスでの成功にまつわるあれこれをスピーチし、香水のボトルを手にした彼女の写真を額に入れ、本人にプレゼントした。するとパリスは甲高い声ベビーボイスで、「これすごく気に入ったから、新しいアパートに飾るわ! 幼い頃は自分の香水をもてるようになるなんて想像もしてなかったのに」とはしゃいでみせた。

その後、ロフタス氏と広報担当とともに、白いテーブルに着き朝食をとった。パリスの声は普段通り、低めの声に戻り、チャリティー・イベントで足を運んだ香港の話を始めた、と思いきや、彼女はくるりと振り向き、iPhoneを取り出す。ロフタスと広報担当のミラーとセルフィを撮り、何事もなかったかのように、ロフタスとの会話に戻った。

その2日後、パリスは「仕事のことになると、私、ビジネスマンみたいになるの。たまに、私は男なんじゃないか、って思うわ」と話していた。

もしくは、妹ニッキー・ヒルトン・ロスチャイルドがいうように、「ただのおバカだったら、ここまで成功しなかった」はずだ。

パリス・ホイットニー・ヒルトン(Paris Whitney Hilton)は、1982年2月17日、ニューショーク市で、父リチャード・ヒルトンと、母キャシー・リチャーズの間に生まれた。父、リチャードの祖父は、ヒルトンの創業者であるコンラッド・ヒルトン。母、キャシーは元子役で、リアリティ番組『リアル・ハウスワイヴズ・オブ・ビバリーヒルズ(Real Housewives of Beverly Hills )』の主演、カイル・リチャーズとキム・リチャーズ(パリスにとっては叔母)の姉。パリスは子供時代、ビバリーヒルズとマンハッタンを行き来しながら過ごしたが、現在、彼女はどちらの街にも自宅がある。マンハッタンの部屋は、自宅というよりむしろ、アメリカン・アイコン「パリス・ヒルトン」をモチーフにしたインスタレーションのようだ。部屋の壁には2つの作品が飾られており、1つは電源を入れるとフラッシュが光るパパラッチの写真。もう1つは、パリス、アンディ・ウォーホール、ダースベイダーなど、アメリカのアイコンが描かれてる絵画。リビングルームにある棚には、ドルマークの置物、彼女がプロデュースした香水が並んでおり、彼女の自伝『PConfessions of an Heiress: A Tongue-in-Chic Peek Behind the Pose』も1冊置かれている。一見悪趣味なインテリアも、パリス・ヒルトン、というキャラクターとひっくるめて判断すると、ごくナチュラルな選択だ。

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パリスは、何もなかったように「私は、ブランドになるべくして生まれたの」とカマし、カウチの上で、愛犬ピーターパンと一緒に体を丸めた。クリスタルが敷き詰められた暖炉には炎が煌々と燃え盛っている。

たいていの金持ちは、自分たちの子供が財産頼みの人生を送るものとタカを括っているが、ヒルトン家では幼少のパリスに、早く自立した女性になるよう、強く勧めたそうだ。「とにかく、何か大きなことを達成して、一族にとって自慢の存在になりたかった。そのプレッシャーはとても大きかった」。パリスは「勧め」を肝に銘じると、父や祖父のことを、家族というより「師」として捉えるようになった。

ニッキーの記憶によると、パリスはいつも父の『会社』と『会社の仕組』みに興味を持って、色々嗅ぎ回っていたそうだ。

幼いパリスは、よく父親にくっ付いて、彼が経営する不動産仲介会社、ヒルトン・アンド・ハイランド(Hilton & Hyland)に潜り込んでいた。今のような「パリス・ヒルトン」というブランドになった彼女の容姿からは、到底かけ離れた様子だった。「パリスは本当に男勝りで、間違っても、女々しい感じではなかった」とニッキーは振り返る。ピンク色が大嫌いで、当時憧れていた職業は獣医。ロサンジェルスの学校に通っていた頃は、放課後になるといつも、買い貯めていた爬虫類、犬、フェレットを可愛がっていた、とニッキーは教えてくれた。2003-05年、『シンプル・ライフ』のファースト・シーズンをプロデュースした、ニコル・ヴォリアス(Nicole Vorias)は、パリスが、しょっちゅう、子供の頃に飼っていたペットの話をしていたのを思い出す。「彼女は蛇、亀、スナネズミ、ドブネズミ、なんでも飼ってたみたい。マイケル・ジャクソンみたい」

パリスは、父にペットをおねだりするためにベビーボイスを利用した。「あのベビーボイスは、赤ちゃんだか子供だかわからない頃にマスターしたの」「何か買って欲しいものがあると、『パパ、どうしてもこれが欲しい!』っておねだりしてた」

「パリスがおねだりすると、声が1オクターブくらい高くなって、甘えたような声になる」とニッキー。

父リチャードが、パリスのおねだりに気づいてから、ペットを買い与えるのを止めた。そうすると、パリスは小遣いを貯め、自分でペットを買うようになった。両親は、TV版『チャーリーズ・エンジェル(Charlie’s Angel)』(1976-1981)の主役、ジャクリン・スミス(Jaclyn Smith)が住んでいた、ベルエアにある豪邸を購入した。スミスはインフラを完備したドールハウスを敷地内に普請していたので、パリスはドールハウスで、チンチラ、鼠、ハムスター、ときにはヤギまで飼っていたそうだ。「おそらく両親は、ヤギのことは知らなかったハズ。そのドールハウスは本宅からかなり遠いところにあったから、両親は一度も来なかった」。パリスは、ドールハウスでの経験を基に、等身大の犬小屋を、ビバリーヒルズの家の庭に普請した。

10代の頃、パリスはカリフォルニアで暮らしていたが、ニッキーはマンハッタンの学校に通っていた。あるとき、ニッキーがロサンゼルスにいるパリスを訪ねると、そこには、動物オタクだった幼少期からは、想像もつかない姿のパリスがいた。ニッキーは、そこで見たパリスのことを「キャピキャピしてて、服の色も派手で、ブロンドヘアー」の典型的なカリフォルニアガールだった、と説明する。

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ある日、パリスは、ニッキーとクラブに行こうとした。ニッキーは未成年だったので、クラブのセキュリティーに入場を断られないか、と心配していた。するとパリスは、黒のアイライナーで、ニッキーの瞼にラインを引き、火の付いてないタバコを持たせ、サングラスを渡し、「何も喋らないで」とニッキーに伝えた。「突っ立って、タバコを吸ってるフリをしてて、そうすれば大人っぽく見えるから」

パリスは、状況によってキャラクターを変えることにより、男性を、彼女の思い通りにする術を身につけていた。「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」とは、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの金言。パリスは女性らしさとは何かを把握し、女性特有のありきたりな行動パターンを、デフォルメするワザを、十代にして身に付けてしまった。その頃、彼女がとった行動を、ジュディス・バトラーであれば、「自らの欲望を実現するために、男性を巧みに操る」と分析するハズだ。

パリスはこの行動について「若い頃に習得したの。ボーイフレンドが怒っても、10代の私が、『ごめなさい、そんなつもりじゃなかったの』ってベビーボイスで甘えれば、みんな許してくれた」と自慢気に回想した。

容姿、夜の活動がいくらお盛んになろうと、ニッキー曰く、パリスの真価は変わらない。高校に通うため、パリスはニューヨークに戻る。そこで、彼女は、後にジョンソン・アンド・ジョンソン(Johnson & Johnson)の後継者で親友の、ケイシー・ジョンソン(Casey Johnson)と、リュックサックいっぱいにフェレットを詰め込み、学校に持ち込んだ。その頃も、必要がなければ、パリスがベビーボイスを使わなかった。変わったといえば、クラブで遊ぶために「女性らしさ」を強調するようになったぐらいだ。

「たまに、子供っぽい仕草をしてみせるの」とパリスはおどけてみせる。「これはファンタジーだから」

そして、そのファンタジーは街を虜にした。1999年、ニューヨークポスト紙は、パリスとニッキーの「夜のペルソナ」を執拗に追いかけた。同紙の記事は、ニューヨークに住む若い女性セレブを取り上げ、パリスに「ニューヨークで最も魅惑的な女の子」の称号を与えた。

2005年10月15日、ミシェル・ゴットヘルフ(Michell Gotthelf)は、「ニューヨークでいちばんブッ飛んだ大富豪の後継者は、ホテル界の寵児、19歳のパリス・ヒルトンに決まり。職業は『モデルのバイト』。癖は『T-バックのチラ見せ』」と『ポスト(Post)』に掲載した。「プラダのハイヒールがよく似合う、16歳の妹ニッキーは、高校生だが25歳に見える。しかもクラブでは、シャンパンを呷り、タバコをふかしていた」

2001年9月、パリスとニッキーは、デイビット・ラシャペル(David LaChapelle)とのフォト・セッションで『ヴァニティ・フェア(Vanity Fair)』の誌面を飾る。ニッキーは黒と白のドレスに身を包み、パリスはシルバーのショートパンツにシルバーのジャケットを羽織っただけで、ブラジャーすら身につけていなかった。

『ポスト』は、1999-2000年の一年で、パリスの記事を9回掲載し、2001年までに、パリスの名前は17の記事に登場した。そのうちのいち記事で、ゴットヘルフは、誰かがパリスのことを、下劣でマヌケなパーティ・ガールとして描写したテキストを引用した。「近頃、彼女たちの行動は目に余る。一族に対して尊敬の念があるのなら、コカインを吸うべきでない」

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しかし、『シンプル・ライフ』のプレミアが放映される3年も前から、パリスは、ビジネス・チャンスを逃さぬよう、女性らしさを操る術を知っていたのだ。イーディス・ウォートン(Edith Wharton)による、時代遅れの「アッパーイーストサイドに住む資産家の娘が守るべきルール」をブチ破り、パリスは、タブロイドの主人公に成り上がった。誰もが、パリスの話題に夢中で、誰もが彼女をパーティーに呼びたがった。プロモーターは妹たちにまで、 ギャラを払うからパーティーに来て欲しい、と頼みはじめた。

ヒルトン姉妹は、「職業=夜遊び」のオリジネイターだ。ニッキーはその状況を「とにかく信じられなかった。え? どうゆうこと? そこに行くだけでおギャラもらえるの? 友達と遊ぶだけで? もちろん行くわ!って感じだった」と振り返る。

高校卒業後、ロサンゼルスに戻ったパリスは、ニューヨークで得たノウハウを活かし、ハリウッドとアメリカのメディア乗っ取りを企てた。

今年の4月、われわれは、プラザホテルの地下にあるトッド・イングリッシュ・フードホール(Todd English Food Hall)でヴォリアスに会い、パリスがどのように企てを実行したのか、真相を聞き出した。

トッド・イングリッシュは、キャッシャーが、紙箱に入ったチキンナゲットを出す変わりに、セラミックの皿に乗った寿司を出してくれること以外、どこのモールにもあるようなフード・コートと、なんら変わりはない。パリス・ヒルトンの初期キャリアを振り返るには、うってつけの場所だ。

ヴォリアスは、ピンク色のカーディガンを羽織って、花柄のバッグを小脇に抱えている。「全部、意図的にやってたことよ」とヴォリアスが口火を切った。ヴォリアスは、後にパリスのマネージメント会社となる、ザ・ファーム(The Firm)で開発部長として働いていた頃、初めてパリスに出会った。その頃すでに、パリスは幾つかの映画に出演していた。

Fox社は2003年、『グリーン・エイカーズ(Green Acres)』のTV版リアリティ番組『シンプル・ライフ』を企画し、主役として、パリスに出演を依頼した。パリスは出演を承諾。ファースト・シーズンは『リアルワールド(The Real World)』の制作会社であるバニム-マーレイ(Bunim/Murray)がエグゼクティブ・プロデューサーを担当した。

パリスのマネージメント・チームやフォックス社(FOX)ですら、『シンプル・ライフ』の成功は予想していなかった。リアリティ番組といえば、『ザ・リアルワールド』がMTVの看板であった程度で、『サバイバー(Survivor)』が、主要テレビ局で、初のメガヒットを記録したばかりだった。

こういったリアリティ番組から、ジェニファー・アニストンやベン・アフレックのような、アメリカン・アイコンは誕生していなかった。しかし、パリスは、この番組が彼女のキャリアを一気に押し上げてくれる絶好のチャンスと観じていた。これに関してヴォリアスは、「当たり前よ」と微塵も疑っていなかった。プロデューサーは、当然、セカンド・シーズンの撮影を企画した。そこでは、パリスがディレクターとして、自らを指示する立場になった。ここから彼女は、「おっちょこちょいのパリス」というイメージと、あの有名なセリフを生み出したのだ。

「彼女の『ウォルマートって何?」』ってセリフ覚えてる? ウォルマートが何なのかくらいわかってったのに。あのセリフはパリスのアイディア。その方が、シーンが面白くなる確信が彼女にはあった」とヴォリアスは教えてくれた。

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「パリスは、『シンプルライフ』で、ベビー・ボイスがウケるってわかってたから、あれで通すことにしたの」とヴォリアス。「パリスがイカレぽんちだったら『もし、あんな喋り方の女性がいたら、やりすぎ、ってなっちゃうけど、ジョークのつもりで、目的があって、自分を見失わずにいれば、それって実はクレバーでしょ』なんて発言できないハズ」

キャリアがスタートした頃、パリスは、おっちょこちょいなキャラをアピールするために、外見や姿勢を徹底的に作り込み、典型的マヌケな金持ちブロンド・ガールのイメージを押し出した。彼女は「ヤバい!(That’s hot)」といった、ヒキの強いセリフが視聴者にウケることもわかっていた。けれども、アメリカ国民は、頭が弱く、性差別主義者だから、彼女の過激なまでの女性らしさを楽しめなかった。

リアリティ番組がテレビを独占し、タブロイド紙がリアリティ番組のスターにまつわる話題で溢れ返る、そんな時流の源は『シンプルライフ』に間違いない。この番組は、他の多くのリアリティ番組とは一線を画していた。『カーダシアン家のお騒がせセレブライフ(Keeping Up with Kardashian)』や『Kendra on Top』では、主人公のゴシップをネタにストーリーが展開するが、『シンプルライフ』は、あらかじめ決められた設定のなか、パリスがおバカを演じることでストーリーが展開する。サード・シーズン、第7話ではこんなシーンがある。パリスとニコルがバスに乗ると、頭の弱い金持ち娘が、バスに乗ることをバカにしたような態度で嘲笑し、周囲の顰蹙を買う。しかし、その後、パリスは豹柄のコートを着て、デイケアセンターのインターンとして働くものの、「私たち、デイケアセンターで働くような格好に見える? お金ちゃんと払ってよ」と自らをネタにする。もし、『カーダシアン家のお騒がせセレブライフ(Keeping Up with the Kardashians)』が、有名人一家の私生活を描いたチャールズ・ディケンズの小説であるとすれば、『シンプル・ライフ』は1930年代のイカれたスクリューボール・コメディだ。

ドラマ同様、現実でも、パリスは、パーティーガールから、尊敬を集める女性監督まで、様々なキャラクターを使い分ける。「イビザではレイブ狂いのバービーみたいな格好をする。ニューヨークのチャリティーイベントでは、黒のコートを着て、肌が出るような格好はしない」。公の場では行動を自粛するパリスだが、自宅や、友人と遊びに出かけたりすると、つい、ベビーボイスになってしまう。

「いつもは普通に話すけど、もし私がその口調で話し始めると、みんな『おいっ、ベビーボイス!』ってツッコんでくるの。たぶん、私のことをよく知らない人は、私を世界一のおバカと信じているんでしょうね」

ジャスティン・ストーニー(Justin Stoney)は、ニューヨーク・ヴォーカル・コーチング(The New York Vocal Coaching)を運営する、俳優専門のボイストレーナーだ。彼によると、過去のアメリカン・アイコンたちも公の場では、声を巧みに操っていたをうだ。その最たる例が、マイケル・ジャクソン。「カメラの前ではメディア声を使っていた」とストーニーは説明してくれた。「彼のボイストレーニングを録音したものが残っているんだけど、そこでマイケルは『マイケル・ジャクソンです』って低い声で自己紹介するんだ」

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もしマイケル・ジャクソンのメディア戦略が、彼を80年代の覇者にしたのであれば、パリスの行動は、彼女をブッシュ時代の女王に君臨させた。2003年12月、1300万人の視聴者が『シンプルライフ』 の初回を見守った。それに引き替え、『カーダシアン家のお騒がせセレブライフ (Keeping Up with the Kardashian)』は番組の最高視聴率を記録した瞬間でさえ、480万人しか視ていなかった。ヤフーのインタビューで、カーダシアンについて質問されると、「誰かのお手本になるのは悪い気分じゃない」とパリスはあしらった。2004年、パリスは、1年間で最もグーグルの検索回数が多い人物に選ばれた。マイケル・ジャクソン、ブリトニー・スピアーズ、マイリー・サイラス、ジェニファー・ローレンス、キム・カーダシアン、といったそうそうたるメンツに与えられる栄冠だ。彼女は香水の販売をスタートし、スコット・ストーチと共に、アルバム『Paris』を完成させた。そしてこのアルバムから、ファンの間では定番の「Stars Are Blind」が生まれた。同世代のセレブたちが、旦那探し、親のすねかじりに必死になっているあいだ、パリスは仕事に没頭した。

「欲しいものを欲しいときに手に入れられるって最高でしょ。家族から与えられるものを、ただ受けとってるだけだったら、今のような幸せは感じられていないハズ。自分の力で手に入れた実感が湧かないから。とにかくこんな良い気分にはなれないと思う」

パリス成功の秘訣は、声を操る技術である、とストーニーは、彼の立場から分析する。セレブたちが、ボーカル・トレーニングを受けたがるのは、一般的に、個人を認識する際、声を頼りにする割合が大きい可能性があるからではないか、とストーニは仮説を立てる。「べビーボイスは、聞いた人に若さや、無邪気さ、謙遜さといった印象を与える。みんなが赤ちゃんを好きになるには、それ相応の理由がある」そうだ。

金と名声をひけらかすパリスのキャラクターは、ロサンゼルスで非難の的になった。夜中のコメディー番組で、「有名になって有名人になった」とギャグにされたこともあったが、彼女は耐え抜いた。

ヴォリアスによれば、『シンプルライフ』のヒット以降、パリスは逆風のなかを進まなければならなかった。「パリスと仕事をしたがらないヒトが増えた。彼女を下品で傲慢だと勘違いしてた。その頃、パリス=リアリティ番組ってイメージで、番組はとても人気があったけど、番組と彼女に同じ汚名が着せられてた。番組が成功すればするほど、皆がそれを、現実だ、と信じてしまったの」。リンジー・ローハン(Lindsay Lohan)がパリスとパーティーでもしようものなら、世間は、彼女たちに非難の眼差しを投げかけた。「超一流女優のリンジー・ローハンが、必死になって三流女優になろうとしている」ようだ、とある情報筋は、『Vanity Fair』のナンシー・ジョー・セールス(Nancy Jo Sales)に伝えた。ナンシーは、2000年に、同誌でパリスを大特集したライターだ。

サンタバーバラにある邸宅で、スペンサー・プラット(Spencer Pratt)とヘイディ・プラット(Heidi Pratt)が、「BWRにとって二人との契約は、相当な冒険だったハズだ」と教えてくれた。BWRはブラッド・ピットを担当する大手PR会社で、そんなBWRがプラッツと契約したのも、「パリス・ヒルトン」という先駆者がいたからであろう。スペンサーは、パリスこそが、「セレブに対する世間のイメージを覆し、プラッツやカーダシアンズのようなセレブのために新たな途を切り拓いた」と力説した。パリスがセレブ界を混乱させ「超一流」の定義を塗り替えたことは、2004年の彼女を取り巻く状況をみれば、すでに明らかだった。

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ヴォリアスによれば、『シンプルライフ』が成功すると、パリスを何年も無視し続けたハリウッドにのさばる制作会社の重役たちが、こぞって彼女に会いたがったそうだ。その結果、パリスは、『クリス・エンジェル マインドフリーク(Criss Angel:Mindfreak)』を手がけ、『The Hills』の絶頂期、リアリティ番組の人気がピークを迎えんとしていたタイミングで、MTVの番組開発担当部長に就任した。

「電話が鳴り止まなかった」とヴォリアスは話す。「当時、私はパリスのPR会社の営業開発担当になったばかりで、みんながいろんなアイディアを持って、私を訪ねてきたの。それまでは、自ら仕事を獲りに出向かなければならなかったのに、全てが一変した」

ケーブル・テレビ各局は、『シンプル・ライフ』の後に続けとばかりに、リアリティ番組をこぞって企画した。『The Hills』は、MTVに2度目の黄金時代をもたらした。アンディ・コーヘン(Andy Cohen)は『リアル・ハウスワイブズ( Real Housewives)』シリーズでBravoチャンネルを蘇生させ、TLCは『ダンス・ママ・アンド・ハニーブーブー(Dance Moms and HohneyBoo Boo)』の存在をアメリカ国民に知らしめた。

パリスは、歴史家、ダニエル・J・ブーアスティンの説く「幻影」を創り出したのだ。ブーアスティンによると、ニュースなんぞ「擬似イベント(pseudo-event)」で、ちっぽけで取るに足らない出来事の寄せ集めに過ぎず、時代の瞬間瞬間を、大衆の欲望に応えるべく、恣意的に編集した幻影でしかない。彼は、「幻影(イメージ)とは、単なるトレードマーク、デザイン、スローガン、もしくは、誰もが容易に思い浮かべられるような画像でなく、計算され、意図的につくり出された人格、個人、機関、企業、製品、サービスである」と定義する。パリスはあらゆる瞬間を、大衆の欲望を逆手にとって、幻影に変える術を、メディアに教えたのだ。

例えば、2008年、Hollywood TVで放映されたコンテンツに、パリスがロバートソン通りで、マルチーズを片手に抱え、もう一方の手にはショッピングバッグを持って歩くパパラッチ映像がある。パパラッチは彼女に質問を投げかけるが、彼女は無視し続けた。ところが、犬の名前は?、というパリス・ブランドのPRにふさわしい質問に対してだけ、パリスはにっこり笑い、一息おいてから「マリリン・モンロー」とベビーボイスで返答した。その一言以外、映像が終わるまでパリスは口を開きすらしなかった。買い物をし、街を歩き、ファンと一緒に写真を撮り、車に乗り込み、ブリトニー・スピアーズの「Piece of ME」を皮肉たっぷりに再生した。

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2006年、社会学者カミール・パーリア(Camille Paglia)は『US Weekly』で、パリス解釈を披露した。彼女は、パリスは何ら才能を持ち合わせていない、と評価しているが、「パリスは、『ハイファッションがドラァグクイーンから学んだ技術』に立ち返り、『名声』の定義を変えた」と分析している。パーリアやスペンサー・プラットは、パリスをいちアイコンとして認めているが、彼女がキャリアをスタートしてからの数年間、そんな風に彼女を捉える風潮はほとんどなかった。ナンシー・ジョー・セールスは、パリス邸に泥棒に入った若者を描いた著書、『ブリング・リング(The Bling Ring)』で、2000年代、セレブ界に蔓延した破壊的自己中心主義の象徴として、パリスを描いている。ジューシークチュール(Juicy Couture)のピンク色のスウェトに 何万円も費やし、MTVの『マイ・スーパー・スウィート・シックスティーン(My Super Sweet Sixteen)』に出演したいがために、わが子の16歳の誕生日パーティーで何百万と浪費するような、「腐れセレブ」の代表に、パリスは仕立て上げられてしまったのだ。

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2007年、『Newsweek』でキャスリーン・デヴィニー(Kathleen Deveny)は、「Girls Gone Bad: Celebs and Kids (堕落した女子:腐れセレブと未来ある子供たち)」(http://www.newsweek.com/girls-gone-bad-celebs-and-kids-104717)というカバーストーリーで、パリスを諸悪の根源かのように特集した。また、彼女は,自身の誇大妄想のみを根拠にした記事で、「性に奔放で、淫らな服装を好み、車から降りるたびにワックスで手入れされたオマ◯コを見せびらかさずにはいられない、セレビッチたちのイメージに、われわれの子供たちは晒されている」と頓珍漢な警鐘を鳴らした。彼女は更に、「私たちが育てているのは、ドルチェ・アンド・ガッパーナの財布が何よりも大切で、『adequate』といった言葉の定義もスペルも知らずに、売春婦のような格好をしたがる、「プロスティ・トッツ(prosti-tots)と呼ばれる女の子たちなのか?」と取越し苦言を呈した。

このような評論家たちは、パリスが慈善活動に勤しんでいる事実を知らないのだろう。パリスは、長年のあいだ培ってきた知名度を利用し、恵まれない女性や子供を、積極的にバックアップしている。2015年の夏には、そういった子供たちのために、イビザでDJをした。また、経済的理由から、様々な悩みを抱える女性や、学校に行くことができない子供たちを支援する団体「インディア・スクール・プロジェクト(The India School Project)」に、ここ3年間、寄付を続けている。その結果、パリスの寄付を基に、1つの学校が開校した。そして、自給自足が根付くよう、「チキン・プログラム」をスタートさせた。パリスがひよこを寄付し、彼らが育て、成長したら、食料として子供に与える。もしくは、鶏を売り、学費を支払う。

2014年、「スターライト子供基金(The Starlight Children Foundation)」からは慈善活動に対して、2015年11月には、チリの「メイク・ア・ウィッシュ基金(The Make-a-wish Foundation)」からはボランティア活動と寄付金に対して、パリスは表彰されている。

彼女は、「本当に恵まれた人生を送ってきた。だからそれを社会に返すのは、私の義務」と謙虚さすらうかがわせる。「博愛主義を貫いて、社会の影に光を照らしていけたら素晴らしいと思う。誰かの役に立つことは、私の喜び。困っている人を助けたり、世の中を変えることがで、社会にお返しをできたら、それほど素晴らしいことはないわ」

JezebelやTumblerが社会を席巻する以前、隆盛を極めたメディアが、女性セレブの色売りをクソミソに攻撃しても、「性差別」「性暴力」「性暴力」「パワハラ」といったキーワードで、フェミニストや左翼から非難されない時代に、パリスはセレブ界に登場した。メディアの横暴がまかり通っていたにもかかわらず、パリスは、攻撃に対して、謝罪もせず、むしろ、思うがままに振る舞った。

「他の人が私をどう思うかなんてどうでもいい」とパリスは断言する。

ニッキー曰く、「パリスは掟破り。ルールに従わないの」

世の中の因習に中指を突き立てるようなパリスの言動は、一部のゲイたちから「天才」と賞賛されている。 そして今日、多くのホモセクシュアルが、時代を先取りする開拓者として、パリスにエールを送る。ローワーイーストサイドやブッシュウィックにある、薄暗いゲイバーのDJは、パリスの「Stars Are Blind」を、ル・ティグレの「Deceptacon」などと一緒にプレイする。

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「パリスは、アメリカで最も嫌われている女の子、というレッテルを貼られ、10年近くのあいだ、それに耐えてきた」。ソーホーのジェイン・ホテルでレギュラーDJを務める、話題のゲイ・モデル、ジョン・トゥイト(John Tuite)は、よくパリスの曲をプレイする。「彼女は、ブッシュ政権が強いた道徳観にそぐわない、あらゆる不道徳を体現してみせた。最近になって、ようやく、パリスを全うに評価するヘッドラインが、あらゆるメディアで増えてきた。世間の厳しい監視の下、彼女が生き抜いた…というよりむしろ、成功した、という事実は、彼女がパンクスであることの証でもある」

パリスは、ギリシャの金満海運業者や、モデルとの交際で世間に浮名をながしてきたが、結婚や出産を自らのブランディングに利用したりしない。成功を手にした女性の大勢が、ツイッターのプロフィールに嫌味ったらしく、「良妻賢母」と掲載するのを良しとしているが、パリスはそれに習おうともしない。ニッキーは「自分の娘にしつこく付きまとって、結婚相手の世話までしようとする母親が嫌いなの」と話す。それに対して、カーダシアンズは、血眼になって結婚相手を探し、なんとか子供を産んでやろうと躍起になる、クリス・ジェナーの娘を軸に展開する。

リアリティ番組の出演者が、ノベルティを発売できるほどのセレブリティになれるよう、お膳立てしたのがパリスである、という事実に対し、カーダシアンズが感謝しているか否かはわからない。だが、 ヴォリアスは、カーダシアンズのヴォーカル・フライ(アメリカの若い女性の間で流行っている話し方http://nyliberty.exblog.jp/17880242/)は、パリス・ボイスの進化型だ、と分析する。「カーダシアン姉妹の喋り声は、パリス・ボイスの新バージョン、もしくは、デフォルメだ、といつも感じていた」そうだ。

カーダシアン姉妹の喋り声を、声帯をかすかに緊張させ発声する「ヴォーカル・フライ」と分析する、ストーニーも同意見だ。彼曰く、女性がヴォーカル・フライを使うときには、「声帯を緊張させる発声法と、上咽頭と鼻腔に響かせる発声法をミックスして発声する」そうだ。すると、「ヴァリーガールか、赤ちゃんのような声になる」とストーニーは説明してくれた。この声質、甲高いベビーボイスとは異なる。

世間は、カーダシアン姉妹を「ビジネスウーマン」と称賛するが、パリスは罵られた。彼女は、リアリティ番組から生まれるスターの雛形を、何の称賛も受けずに確立させたにもかかわらず…

2000年代に世間を騒がせた、エミリー・グールド(Emily Gould)もパリスと似たようなものだ。ブルックリンでの私生活を綴った、エミリーのブログが『Gwker』に掲載されると、メディアは彼女を酷評した。その5年後、レナ・ダンハムは、 ブルックリンに住む作家として、自身の性生活をネタにしたドラマ『Girls』を制作し、同じネタで『The New Yorker』に記事を書いた。内容はエミリー・グールドのブログと似たようなものだったが、彼女の場合は、ちょっとディスられただけで済んだ。My Spaceの創設者トム・アンダーソンも似たようなものだ。今となっては、関係ないお手本の1つかもしれないが、それがなければ、マーク・ザッカーバーグもFacebookを立ち上げられなかったかも知れない。

「パリス・ヒルトンはとても賢いんだ」とスペンサー・プラットは感嘆した。

プラットは、『Speidi』がヒットするための足場をパリスが築いた、と認めている。パリスの人気が落ち目だ、と世間は評しているが、プラットは、彼女はまだ現役だ、と反論する。 テレビ番組がなくとも、パリスが有名であることに変わりはない。海外のブランドショップ、数々の香水、DJとして、彼女のポートフォリオは厚みを増していく。「パーティーに出るだけでお金が稼げる、ってことを最初にやったのはパリス。このムーブメントのパイオニアはパリスなの」とニッキーは力説する。更に「ほとんどのイベンターが、客を呼ぶために、エンターテイメントとホストに多額の予算を投じるようになってきた。パリスこそ、パーティーのエンターテイメントに相応しい」と彼女は加えた。

E!チャンネルが『カーダシアン家のお騒がせセレブライフ(Keeping Up with the Kardshians)』の放送中止を決定すると、プラットは、カーダシアン姉妹が、またしてもパリスをコピーするのでは、と予想する。あらゆるジャンルで、パリスは、今までにも増して大きな存在感を放っている。彼女がDJを務めるパーティーは常にソールド・アウト、また、この1年間で、17誌の表紙をかざり、2015年のグローバル・スピン・アワード(Global Spin Awards)でセレブリティDJ・オブ・ザ・イヤー(Celebrity DJ of the Year)にノミネートされた。数年後には、上海のヤーセン・コスメティック・グループ(Yasen Cosmetic Group)と200件のコスメティックストアを開店させ、20、21作目の香水も発売する予定だ。

愛犬ピーターパンとカウチに座るパリスは、いかにしてマスメディアが、「パリス・ヒルトンは、頭の弱い、無駄にセクシーで、意地悪な女性」というイメージを世間に植え付けようとしてきたか、憤りと諦めを隠さず吐露してくれた。「本当は傷つきやすくて、人を思いやる気持ちも、いたわる気持ちもある人間だ、ってみんな気づいてないと思う。みんなの話のネタになる私は、本当の私ではない」。われわれは、彼女の言葉を聞きながら、ふと、壁に飾られた絵に目を向けた。そこには、ダース・ベイダーやアンディ・ウォーホールが描かれている。スター・ウォーズやウォーホールのキャンベルと同様、彼女はアメリカを変えた。

「本当のことをわかってない人たちは、『シンプル・ライフ』や、私が子供みたいな声で話すインタビューしか知らない。だから、私を、甘やかされて育ったおバカ、と思うでしょう」とパリスは嘆きつつ、自信も隠さない。「でも、詳しく調べてくれるファンは、真逆の私を知ってる。おバカなブロンド、ってだけで、ここまでのキャリアは築けないし、成功なんてできやしない」