Illustration by 苦虫ツヨシ

なぜタトゥーは地球上のあらゆる場所に存在し、脈々と今日まで続いているのだろうか? それはどのような進化をたどり、現在にいたるのだろう? 人類史に残されたタトゥーの記録をひも解きながら、ターニングポイントを探る。ちなみにダーウィンは〈進化〉とは〈進歩〉ではなく〈変化〉であると説いている。

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19世紀、観測船ビーグル号で5年の歳月をかけて世界一周の航海をした、イギリスの自然科学者チャールズ・ダーウィンは「北は北極地域から南はニュージーランドまで、原住民がタトゥーを施さない地域はない。この習慣は、古代ユダヤ人やブリトン人にもあった」(文献:人間の由来)と書き残している。そして外見や装飾に気を使うのは、人はみな、自分を魅力的にみせようという美意識が、本能的に備わっている。ただし、美の本質や概念は地域によって異なると論じている。

ダーウィンは、とりわけタヒチの若い男性のタトゥーを「身体の曲線に沿った装飾はとても優雅で、なんとも気品ある趣をただよわせている」と称賛している。しかしながら同じタヒチ男性でも、老人たちのタトゥーには、「大概、足に細かな模様を隙間なく彫りこんでいるため、靴下をはいたように見える」とダーウィンは記している。さらに「老人たちは若かりし頃に流行したスタイルのまま、時がとまり、今さら若者の流行を真似るわけにはいかない」(文献:ビーグル号航海記)とタトゥーギークのような観察眼でタヒチ文化を語っているのも面白い。

人類はこれまでに、気候変動や天災、食料の確保、交易や調査、侵略・戦争にいたるまで、さまざまな理由から大地や海を移動し続けてきた。他者との接触で、物や情報を伝達・交換し、または奪い、真似て、混じり合いながら文明は磨かれていった。多くの熱戦・冷戦を繰り返したすえ、忘却の彼方に消えてしまった国家や民族、文化も無数にある。その結果、われわれはどこから来て、どこへ向かっていたのかを忘れてしまった。そして、「なぜタトゥーを施すのか?」という太古からの風習の痕跡すら見失ってしまったのである。

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©EURAC/M.Samadelli/M.Melis

人類最古のタトゥー
アイスマンの発見

1991年9月、イタリアとオーストリアの国境沿いにそびえるアルプスの山中で、ミイラ化した男の遺体が発見された。男は氷河に埋もれていたので、のちに〈アイスマン〉と呼ばれる。

標高3210mの地点に、うつ伏せで倒れていたところを、アルプス登山をしていた年配のドイツ人夫婦に発見された。身体は茶褐色に変色しており、ずいぶん前に死亡したのはあきらかであった。この年は記録的な猛暑日が続き、行方不明になっていた数十年前の山岳遭難者が、溶け出した氷河の中から多数発見される非常に珍しい年だった。このミイラも過去の登山者だろうと誰もが思い込んでいた。

ところが、山岳救助隊や法医学者らが現場に駆けつけ、遺体を氷から掘り出してみると、周辺から石でできたナイフ、草で編んだ靴、矢筒、革のゲートル、銅の斧など、見なれない所持品が次々と出てくる。ミイラが検案のために運びこまれたオーストリアのインスブルック大学では、司法解剖の前に、念のため考古学者が呼ばれた。

同大学の考古学者コンラート・シュピンドラー教授は、所持品をみるなり「これは4000年以上前のものだ」と確信し、露出した骨の一部を分析すると、5300年前に生きていた男性だという驚くべき結果が判明した。古代人が突如、20世紀に姿を現したのだ。

5300年前といえば、人類最古の都市国家といわれるメソポタミア文明が繁栄する前の、新石器時代後期にあたる。しかも男は、墓に埋葬されたのではなく、集落や住居でもない、アルプスの山頂で最期をとげた、極めて異例の〈行き倒れ〉だった。脳や内臓をふくむ肉体、衣服や所持品など当時の姿のまま、5300年間凍っていたのだ。ミステリアスな謎とロマンを秘めた、このセンセーショナルなニュースは、瞬く間に世界中を駆けめぐる。

なかでも人々の好奇心を刺激したのは、アイスマンの肌に残されていた無数のタトゥーであった。タトゥーの謎を解き明かすことは、古代の暮らしぶりを知る手がかりとなるため、考古学者をはじめ、あらゆる分野の学者たちが着目した。一方で、文字や貨幣、法律や宗教、階級などよりも先に、人類はタトゥーを必要としていたという事実は、現代を生きるタトゥーファンをおおいに喜ばせた。俳優のブラッド・ピットがアイスマンをかたどったタトゥーを入れた、とゴシップニュースでも報道された。

現代科学が解明する
タトゥーを施す理由

これまでにも、先史時代の人類がタトゥーをしていた、という仮説が世界各地で提言されてきた。現に日本では、1万6000年前頃からはじまった新石器時代(縄文時代)の遺跡から出土する土偶などにあしらわれた紋様はタトゥーだ、とする説が有力だ(文献:高山純『縄文人の入墨』)。しかし遺跡の研究だけでは、仮説の域をでない。骨は残っても皮膚は残らないため、物的証拠となるタトゥーそのものが発掘される可能性はきわめて低い。ちなみに、日本人のタトゥー習慣が〈文字〉によって記録されるのは、3世紀の中国の文献『魏志倭人伝』からである。

アイスマンは氷河のなかで凍っていたため、5300年もの長いながい時を超えた、まさに〈奇跡の人〉だった。先史時代のタトゥーの物的証拠を身にまとったアイスマンは、超一級の文化遺産でもあり、人類史上最古の人体標本として厳重に扱われた。

例えば、エジプトの古代遺跡から発掘されたミイラは、脳や内臓を抜きとり、腐敗を防ぐ液体が塗られるなど、長年保存できるよう人為的に加工された〈人工ミイラ〉であり、腐敗は免れた。それに対して、自然冷凍でミイラ化したアイスマンは、無加工のため体内に水分が残っており、腐敗を防ぐ必要があった。保管先として選ばれた『南チロル考古学博物館』では、無菌状態に保たれたマイナス7.2度の冷凍室でアイスマンを再凍結し、発見時の状態を維持した。その結果、研究者たちは、凍ったままでは精密な調査ができない、というジレンマに陥ってしまった。

それを打開したのは、この四半世紀におけるテクノロジーの急激な進歩である。これまで人類の過去を探るには、発掘物と記録文献を照らし合わせながら、歴史的事実を根気よく解明していく考古学が主たる方法だった。しかし科学技術のめざましい発展は、発見から20年近い時を経たアイスマンの完全解凍を可能にしたのだ。ミイラ研究の世界的権威であるアルベルト・ツィンク博士(ミイラ・アイスマン研究所所長)の指揮のもと、神経や脳、感染症の専門家などを含む24人の特別チームが編成され、2年にわたる入念な準備の後、最先端の医療機器を用いて、アイスマンの体内が徹底的に調査された。

身体のいたるところから149点のサンプルを採取した結果、アイスマンの謎が次々と解き明かされた。DNA鑑定によると、アイスマンは身長157.5㎝、体重50㎏、年齢は45歳前後で筋肉質。髪は黒っぽく、瞳は茶色、肌は典型的なヨーロッパ系の白色。血液型はO型。死因は、後ろから矢で射られた他殺。殺害の動機は不明。

この時点で、十字形や平行に並んだ線状のタトゥーが、全身15カ所に確認されている。何かしらをモチーフにした紋様であれば、信仰や装飾を目的とした可能性もあるが、タトゥーの位置からすると、他者に見せる意図はまったく感じられない。血統や社会的役割をあらわす原始的なトライバル・タトゥーとも異なるようだった。

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アイスマンにあったタトゥーの箇所とバリエーション。実物は茶褐色なのでモノクロ写真が見やすい。©EURAC/M.Samadelli/M.Melis

医学博士レオポルト・ドルファー氏は、いずれも鍼灸治療のツボと一致している、と判断する。それも腰痛に効くツボである。X線写真で確認すると、腰椎が前に滑り、椎間板が損傷しているのが明らかになっている。よってアイスマンのタトゥーはツボを刺激する〈印〉説が有力視された。この結果、さらにアイスマンの謎は深まった。

これまで鍼灸や指圧は、東洋の治療法とされてきた。これらの治療法に関する最古の記録は、中国伝統医学の根源である『黄帝内経(こうていだいけい)』という書物に、2000年前にまとめられている。5000年以上も前のヨーロッパにツボの知識が浸透していたのであれば、従来の歴史認識が覆えされるだろう。

さらに根気よくタトゥーの調査を重ねたミイラ・アイスマン研究所のマルコ・サマデルリ氏は、特殊カメラで肉眼では見つけづらいタトゥーの明確な数と位置をつきとめ、その全貌を明らかにした。アイスマンのタトゥーは全身に61個もあり、19のグループに分けられるという。

CTスキャンの画像でも、膝と臀部の関節は軟骨がかなりすり減っており、腰と膝に痛みをともなう関節炎の症状がでていたのは間違いないとされた。ところが肩や肘、指の関節には異常が見当たらない。そこから導きだされた生前のアイスマンの生活は、狩猟採集民族ではなく、農耕牧畜社会の一員で、ときに重いものを運びながら絶えず移動する〈交易・行商〉に携わっていた可能性が浮上した。

最近新たに、右の胸と、右の下腹部にもタトゥーが見つかった。アイスマンには胆石があり、ピロリ菌に感染していたことが突き止められている。結腸内からは寄生虫も見つかっており、ときに激しい腹痛や消化不良にも悩まされていたのだろう。考古学者のアーロン・ディーターウォルフ氏は、病気や怪我をかかえていた部分にタトゥーがあるのは、タトゥーの目的が〈痛みを和らげるため〉だったのでは、と指摘する。

炎症や痛みを抑えるためにタトゥーを入れる習慣は、古くはインド、東南アジア、北アメリカ、北極圏など、各地で行われたいた記録が残っている。実はここ日本でも、タトゥーによる民間療法は昭和30年代頃まで行われていた。

熊本県南部に広がる八代平野は、畳の原料となるイ草の生産日本一を誇り、栽培の歴史は500年以上におよぶ。なぜこの地域にタトゥー療法が定着したのかは不明だが、イ草農家の過酷な労働環境が関係していたのかもしれない。

イ草の植えつけは冬に、刈り取りは真夏に行われる。最盛期のイ草農家は、毎朝4時に起き、夜遅くまで作業に追いまくられ、睡眠時間は3~4時間。とくに刈り取り作業では左手関節を痛め、腫れ上がると痛くて動かなくなる。このような状態を地元では〈そらうで〉と呼び、痛みをとるために手首に小さな丸い点状のタトゥーをした。この地方ではイ草農家にかぎらず、左官などでも手首が痛くなれば、近所の専門家と称する人、あるいは家族が、縫い針を束ねたものを火であぶり、墨をつけて皮膚に刺入をした(文献:小野友道『いれずみの文化史』)。

似たようなタトゥーによる民間療法は、沖縄でも確認されている。神経痛やリウマチ、腰痛、関節痛などの痛みを和らげるために、腰やひざ、ひじなどにタトゥーが施術された(文献:山本芳美『イレズミの世界』)。なお沖縄や奄美諸島には、女性の手に施される〈ハジチ(針突)〉という独自の装飾タトゥー文化もあった。

2500年前のパジリク文化から見る
治療と装飾目的のタトゥー

また、アイスマンのタトゥーの発見により、2500年前の人工ミイラに再び注目が集まった。あまり知られていないが、アイスマンが発見される17年前の1974年、シベリア南部に位置するアルタイ山脈の古墳から、アイスマンと同じ部位にタトゥーをもつミイラが発見されている。

古墳のあるアルタイ地域は、現在のロシア、モンゴル、中国、カザフスタンの4つの国境をまたぐ、ユーラシア大陸の中央に位置している。発見された人工ミイラは、寒冷な気候により、凍結していたおかげで保存状態が非常に良好だった。古墳に埋葬されていたのは、2500年前にユーラシア大陸の広大な範囲で、強大な勢力を誇っていた騎馬遊牧民の戦士であった。

戦士のミイラには、背骨をはさんで右側タテに3個、左側タテに11個と、右の足首に弓型に並ぶ6個の丸い点状のタトゥーが確認されている。このミイラを研究したのは、アイスマン発見に立ち会ったコンラート・シュピンドラー教授であった。シュピンドラー教授は、ユーラシア大陸の遊牧民とチベットには、リウマチや関節炎をお灸で治療する風習があったため、このタトゥーを〈治療の跡〉と結論づけた。

だが、発掘当時、この治療を目的としたタトゥーには、さほど関心が集まらなかった。なぜならば戦士のミイラには、身体を美しく飾る黒一色の大きなタトゥーがあったからである。考古学者たちも、まさかこの地域に精巧なタトゥー文化があろうとは想像してもいなかった。

タトゥーのモチーフには、鹿、ロバ、ヤギ、魚という実在する動物紋様のほか、パジリク文化のシンボルである、ワシの上半身とライオンの下半身をもつ〈幻獣グリフィン〉が採用されている。モチーフについては、古代スキタイ文化の影響を色濃く受けた、トーテム崇拝などの信仰が関係するとみられている。〈幻獣グリフィン〉は、勝利の象徴であり、黄金を守る守護獣として、馬具や金細工、アップリケなどにも用いられている。

タトゥーは他者にもハッキリと美しく見えるよう計算され、身体に合わせた的確なサイズで配置されている。アウトラインを描き、一部分を塗りつぶす表現方法も心得ていた。2500年前、自身の属する文化のシンボルをオリジナルのタトゥーとして、すでに図案化していた事実には驚くばかりだ。この時代にはタトゥーアーティストなる専門の職人がいた可能性もあり得る。

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パジリク戦士のタトゥーの箇所とその紋様の図解

タトゥーの施術方法については「針で皮膚を縫い通したり、つき刺したりして、油煙のような黒色脂油の物質を入れ、色素は皮膚から筋肉にまでおよんでいた」との研究記録が残されている。もしこれが事実であれば、現在のタトゥー技術の常識からみて、驚くほど深くまで刺しているので、施術には相当な痛みが伴ったはずだ。

このミイラは、治療としてのタトゥーと、装飾目的のタトゥーを併せもつ非常に貴重な存在として、アイスマン発見後、再び脚光をあびた。しかし、発見された1974年は、崩壊寸前のソビエト連邦時代だったこともあり、研究資料があまり残されていない。

90年代に入ると、この地域に装飾を目的とするタトゥー文化が根付いていた物的証拠である人工ミイラが、さらに2体も発見された。パジリク古墳群より200㎞南方のウコク高原で、凍結した男女の人工ミイラが発掘されたのだ。そのミイラには精巧なタトゥーが施されており、どちらも2500年前のパジリク文化に属している、と調査から判明している。

男性は、推定40歳。鹿のようなヒズメとツノのある躍動的な動物の絵が、黒一色のタトゥーで描かれている。女性は25~28歳で、生前はシャーマン(巫女・祈祷師)として、病気の治療や予言に携わっていたようだ。肩にあるタトゥーは、うずをまいた角と口ばしのある鹿のような幻想動物で、現代のわれわれから見ても〈カワイイ〉モチーフである。女性の指、腕、手首にあるタトゥーには、パジリク文化を象徴するグリフィンも彫られている。彼女のタトゥーは、2014年ソチ冬季パラリンピックの開会式でフィーチャーされて話題となった。開会式のテーマは〈氷を破って〉である。

人類史上における火の利用と
クロマニョン人の芸術活動

アイスマンの発見によって、5300年前に、人体にタトゥーが施されていたのが明らかになったが、そもそもタトゥーの起源を論じるさい「タトゥーは火の誕生と密接に関係し、太古から各地でおこなわれていた」と指摘する識者は少なくない。火は炭や煤(すす)を生み、それを切り傷・すり傷などの止血に使っていたからだ。人類史上かなり早い段階で、傷口に炭や煤を塗り込むと、創痕に色が残り肌に定着すると周知されていたと推論できる。

人類は、100万年以上前から火を利用していた可能性が示唆されているほど、人類と火の歴史はとてつもなく長い。石器時代には、人の手で火を起こす〈発火〉も行えるようになった。火が人類にもたらした恩恵は数限りなくあるが、そのひとつがタトゥーであるとの説がある。

では、自らが望む部位に、装飾を目的とした〈ボディーアート〉としてのタトゥーを施すようになった起源は、いつだろうか? その疑問を解くカギは、実は、約4万~1万年前の氷河期にヨーロッパで暮らしていたクロマニョン人にありそうだ。

多彩な道具をつくり、洞窟に壁画を描いていたクロマニョン人は、生活のなかで豊かな表現活動をしていた。この時期は〈芸術の爆発〉時代と呼ばれている。4万5000年以前のネアンデルタール人からは、芸術活動の形跡は見当たらない。

人類史のなかで芸術が誕生したのは、旧石器時代後期のオーリニャック文化からだといわれており、その文化の担い手が、フランス・ピレネー地方を中心とするヨーロッパで暮らしていたクロマニョン人だったのだ。この地域からは、装身具、彫刻、造形芸術、動物や神話の描写、楽器などが出土している。

クロマニョン人は骨製の縫い針を発明し、毛皮を加工した機能的な衣服を生み出した。また、貝殻・動物の歯・象牙製のビーズやペンダントなどのアクセサリーをつくり、現代人とさほど変わりないお洒落を楽しんでいたのである。ほかにもボディ・ペインティングしていた可能性も指摘されている。

クロマニョン人の生活環境と創造性からすれば、ボディ・ペインティングをしていても何ら不思議はない。だが、このボディ・ペインティングこそ、実はタトゥーだった可能性がある。彼らが縫製に使った骨製針は、古代のタトゥーイングにもっとも適した形状である。よって〈針を自在に扱える=必要な部位に的確にタトゥーを施せるようになった〉という推論も成立する。

装飾的なタトゥーの起源は、傷口にすり込んだ炭や煤が創痕に残る、という経験を礎に、人類が表現活動を開始したのと同時に始まっていたという仮説は有力である。そのことから、人類最初の芸術行為は「洞窟壁画が先か? 人体へのタトゥーが先か?」という議論がもちあがったほどだ。

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アルタイ山脈で発掘されたパジリク文化のタトゥーをしたミイラ。ロシア・サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館にて(写真提供 : ケロッピー前田)

アイスマンの存在が
人類の歴史を動かす

物的証拠が発見されない以上、クロマニョン人がタトゥーを施していたのを立証するのは難しい。逆をいえば、クロマニョン人が〈絶対にタトゥーを施していない〉と断言するのも難しい。

2014年、ガンガラーの谷にあるサキタリ洞遺跡から、沖縄旧石器人によってつくられた〈世界最古の貝製釣り針〉が発見され話題になった。現に日本でも3万年以上前に海を越えてやってきた最初の日本列島人(ホモ・サピエンス)が旧石器時代を過ごしたのち、約1万年前の〈芸術が爆発〉した縄文時代に、やはりタトゥーを行っていた可能性が指摘されている。そのことからも人類史において、美意識の萌芽とタトゥーの親和性は高いといえるのではないだろうか。

ひとつ言えるのは、クロマニョン人による骨製針の発明は、その後、周辺地域のタトゥー文化の発展に大きく寄与しているはずだ。それを裏付けるのが、アイスマンのタトゥーである。アイスマンが生きていた5300年前のヨーロッパでは、生活のなかに〈タトゥー〉という行為がすでに普及していた様子がうかがえる。

そもそもタトゥーには、必要不可欠な条件がある。まず大前提として〈タトゥーを必要とする人〉と〈タトゥーを行う人〉の両者が揃わなければ成立しない。そして発展に欠かせないのは、知恵と道具であり、道具とはズバリ〈針〉と〈インク〉だ。これは今も昔も変わらない。

人類最古のタトゥーをもったアイスマンの発見は、いまだ解き明かされていないタトゥーの起源を探るうえで重要な手がかりとなった。死後5300年がたち、長い眠りから目覚めたかようにブレイクしたアイスマンは、人類の進化の歴史を塗り替えながら、イタリア北部にある『南チロル考古学博物館』に保管されている。

『南チロル考古学博物館』ーMuseo Archeologico dell’Alto Adigeー
開館時間:10:00~17:00(木曜日は19:00まで)
休館日:月曜日(1月1日、5月1日、12月25日は休館)

アイスマンのタトゥー研究に貢献するため誰でも無料で閲覧できるウェブサイト、Iceman Photo Scan