スカ、ロックステディ、ルーツ・レゲエ、ダンスホール。ジャマイカがわかれば尚楽し、というわけで、ジャマイカのミュージック・カルチャーに関わりの深いであろう、音楽以外の情報を時系列でまとめてみました。まずは独立まで、暇で暇でしょうがないときに、少しずつお目通しいただければ幸いです。

それでは、『WHO ARE YOU?』『若き写真家がみる歪んだ世界』に続く新シリーズ『TIMELINE』第1弾をどうぞ。

ジャマイカ国旗

1494

クリストファー・コロンブス、ジャマイカ上陸。ジャマイカの記録が始まる。

1509

スペインがジャマイカの領有を主張。セビージャ・ヌエバ(Sevilla la Nueva)が初の入植地となり、首都機能を果たす。アラワク族などの先住民たちは、スペイン人による拷問、殺害、もたらされた疫病、過酷な奴隷制度により、50年も経ずに絶滅してしまう。

1517

アフリカから奴隷の強制連行が始まる。先住民保護に勤しむあまり、ラス・カサス神父は黒人奴隷強制連行を否定できなかった。

1538

ヴィラ・デラ・ヴェガ(Villa de la Vega)、現在のスパニッシュ・タウンに首都移転。サトウキビ・プランテーションが盛んになり、奴隷貿易も盛んになる。しかし、金鉱もないジャマイカに対するスペインの関心は薄く、南北アメリカ大陸進攻の兵站基地となった。また、女性の入植が許可されなかったため、タイノ族、アラワク族女性とスペイン人男性のあいだで正式な婚姻関係が結ばれ、メスチーソが増加した。スペイン人によるタイノ族女性への暴行は日常茶飯事だった。

1641

イングランド統治にたいする不満が高まったアイルランドで反乱が起こり、プロテスタントが虐殺される。これ以来、アイルランドとイングランドの対立が激化。

1649

イングランド護国卿オリバー・クロムウェルのアイルランド侵攻、蹂躙により、アイルランド人のディアスポラが始まる。なかでも、ジャマイカには大量のアイルランド移民が流入し、現在、人口の25%をアイリッシュが占める。アイルランド人の大勢がカトリックでありながら、流入以来、土着プロテスタントのアフロ・ジャマイカンとの関係は良好である。敵の敵は味方、といったところか。当然、個人的にいがみ合うアフロとアイリッシュはいる。

1655

海軍総督ペン率いるイギリス軍のジャマイカ侵攻。8日間の戦闘でイギリス軍が勝利。スペインの敗北を機に、黒人奴隷が丘陵部に逃げ込み、イギリス軍を相手にゲリラ戦を開始。イギリス軍を苦しめた奴隷たちは「マルーン」と呼ばれた。

1657

海賊の拠点として繁栄する「世界一豊かで最悪の街」ポート・ロイヤルに首都移転。海賊たちは英国による庇護のもとフランス船、スペイン船を襲撃していた。

1660

マルーンはの英国に対するゲリラ戦は5年に及んだ。結果、英軍はルボロ(Lubolo, Juan de Bolas、ファン・デ・ボラス)率いるマルーンの1団と和平交渉を試みる。交渉の結果、ルボロ率いるマルーンはイギリスからの入植者と同等の地位を獲得。

最後のスペイン人統治者、キューバに逃亡。

1663

ルボロは、ファン・デ・セラ(Juan de Serras)率いるマルーン・セクトの懐柔を試みたが、失敗。ルボロは、裏切者として八裂にされてしまう。反骨のマルーンとイギリスの緊張は高まり続ける。

1670

マドリード条約により、ジャマイカは英領となる。

1692

6月7日、大地震により、ポート・ロイヤルは3分の2が水没し、壊滅的被害を受ける。スパニッシュ・タウンに首都移転。商業の中心地はキングストンに。

この頃から、ガーナから強制連行されたアシャンティ人、クジョー(Cudjoe)によるマルーンの組織化が始まる。クジョーの兄弟には、アコンポン(Accompong)、クアコ(Quaco)、クッフィー(Cuffee)、ジョニー(Johnny)ナニー(Nanny)がいた。クジョー指揮のもと、それぞれがマルーンを組織。謎に包まれた唯一の女性マルーン、ナニーは、1975年、ジャマイカ政府により国民的英雄に認定された。

アシャンティ文化がジャマイカン・カルチャーに与えた影響は大きい。アシャンティ由来、との説もあるブル・ドラムがラスタの集い「ナイヤビンギ」の音楽形成に大きく寄与している。ナイヤビンギ音楽は、ルーツ・レゲエ、ダンスホールに多大なる影響力を誇る。

1731

第一次マルーン戦争勃発。プランテーションの拡大による混乱、入植者増加を目指す植民地当局はマルーン根絶を目論み、マルーン間の分断をはかる。戦争は8年続いた。

1739-40

マルーンと植民地当局間で停戦合意が交わされる。逃亡奴隷の受入禁止に加え、逃亡奴隷拘束を条件に、自領を確保した。この合意を機に、一部マルーンは植民地軍の尖兵となる。1673年には57だけだったサトウキビ・プランテーションは急増し、この時期には430を数えた。

停戦合意により、クジョーはトレローニー(Trelawny)の司令官に任命された。

1760

5月、セント・メアリーの奴隷監視人タッキー(Tacky)は、コロマンティ奴隷の苦境を看過できず決起。商店から4バレルの火薬、40丁の銃火器を強奪し、いくつものプランテーションを蹂躙する。その途中、数百名の奴隷がタッキー団に参加し反乱は拡大したが、植民地軍とマルーンの連合に鎮圧された。タッキーは伝説のマルーン、タビーに捕まり頭部を切断された。タッキーの同胞が奪い返すまで、頭部はスパニッシュ・タウンで串刺しにされ、高所に晒されていた。

1791

世界初のアフロ革命がハイチで勃発。

1795

8月、トレローニー教区(Trelawny Parish)で2人のマルーンが2匹の豚を盗んだ疑いで、黒人奴隷に打ちのめされた。事件を憂いた6人のマルーン指導者たちが植民地政府に訴えるが、彼らは捕えられてしまった。日頃から、1739年合意の不履行に不満を抱いていたマルーンは決起。植民地軍は、マルーンの10倍にあたる5,000の兵士と、数百匹のブラッドハウンドを投入して勝利した。

トゥサン=ルヴェルチュール

ハイチ革命の英雄、トゥサン=ルヴェルチュール. image via wikipedia

1804

ハイチ、フランスを打破し、世界初のアフロ共和国として独立。

1807

マルーンの反乱、ハイチ革命、フランス革命により混乱する欧州事情を鑑みた英国議会は、アフリカ=ジャマイカの奴隷貿易廃止を決定するが、奴隷制廃止には至らず、319,351人のアフロ・ジャマイカンは引き続き隷属を強いられた。

1811

最初の中国人移民、ジャマイカに現る。

1831

アフロ・ジャマイカン・コミュニティで確固たる影響力を有する奴隷であり、バプテスト派の牧師補佐サミュエル・シャープ(Samuel Sharpe、サム・シャープ)がイギリス統治に牙を剥いた。当初、サム・シャープは非暴力的抗議を予定していたが、彼に従うアフロたちは暴徒と化し、抗議運動は「バプテスト戦争」と称されるほどの規模にまで拡大。暴動収束までの2週間で植民地政府の14名、反逆するアフロ200余名の犠牲を数えた。最終的に1832年、サム・シャープはじめ約350名の処刑を経て「バプテスト戦争」に終止符が打たれた。

1833

英国議会で奴隷制度廃止法案が可決。大英帝国が負担したジャマイカ奴隷主たちへの補償総額は5,853,975ポンド(現在の日本円にして1~2千億円)。

1834

奴隷制度廃止。解放されて自由になるか、徒弟制度によりプランテーションに残るか、アフロに選択肢が提示された。解放されたところで、財産も所有地もなければ、真っ当に生活するのは困難を伴う。そこで導入されたのが徒弟制度だ。同制度下で、アフロは主人の所有物としてでなく、自らの意思で働けるようになったが、内実、ジャマイカの徒弟制度は、奴隷制度から何本か毛が抜けた程度であった。

1838

徒弟制度廃止。

1845

この年から1917年に、アフロ奴隷の不在を埋めるべく、大勢の年季奉公インド人がジャマイカに現る。現在、インド・ジャマイカンは、アフロ・ジャマイカン、アイリッシュ・ジャマイカンに次ぐ人口である。

1848

アレクサンダー・ベドワード(Alexander Bedward)誕生。生年月日は不明確で50年、59年説もあり。ジャマイカ・バプティスト自由教会の宣教師であり、祈祷師でもあり、マーカス・ガーヴェイとともにラスタファリアニズムの源泉でもある。

1850

アジア型コレラの流行により、約30,00の死者を数えた。不衛生な生活環境がひとつの原因だった。

1845

ジャマイカ初の公営鉄道敷設。この時期、社会事業の革新が進み、道路整備、架橋工事などが盛んになる。

1859

ジャマイカ国内初の電信ネットワーク開通。

1865

10月7日、アフロたちが信頼するオピニオン・リーダ、アフロ・バプテスト派のポール・ボウグル(Paul Bogle)牧師は、植民地権威に対する示威と同胞アフロ鼓舞を兼ね、約200名の手兵を率いてモラント・ベイを行進したが、些細なきっかけから行進は武装反乱にエスカレートしてしまう。反逆軍は大小の衝突を繰り広げた後、10月22日、ボウグル牧師は捕縛され、10月24日、同牧師の絞首刑をもって「モラント・ベイの反乱」は完全に鎮圧された。ボウグル牧師を捕縛したのはマルーンだった。

12月22日、ジャマイカ事情の深刻さを憂慮した英国王室の介入により、然るべき統治能力を発揮しないジャマイカの植民地議会制度は廃止。同島は英領直轄植民地となる。

1870

欧州との電信ネットワーク開通。バナナ・プランテーションが始まる。

1872

キングストンに首都移転。ラスタファリアンはまだおらず、ダンスホール・カルチャーも生まれていない。

1876

アメリカ人預言者シェイクスピア(H.E.S. Wood, Shakespeare)がスパニッシュ・タウンに住み着く。

シェイクスピアは、愛の伝導師であり、神のことばを広める預言者でもあった。彼は、ウィルダネス(荒野)の洞窟で生活した。ウィルダネスでの生活は、聖を目指すキリスト者にとっては避けて通れない試練である。

1879

6月、シェイクスピアがセント・アンドリューのダラス・キャッスル(Dallas Castle, St.Andrew)に現る。

1880

大型ハリケーンがキングストンを襲う。

1887

8月17日、ラスタファリアニズム誕生の導火線であり、ジャマイカの英雄、マーカス・モサイア・ガーヴェイ(Marcus Mosiah Garvey)誕生。マーカスは、ジャマイカ北部のセント・アン教区で生まれ育ち、18歳になるとキングストンに移り住む。キングストンの片隅から鋭い観察眼でジャマイカの状況を把握し、黒人とは何かを思索した。その後、彼は中央アメリカ諸国を巡り、渡英し、独自のアフリカ的世界観を磨き続けた。

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photo via wikipedia

1888

12月、シェイクスピアがオーガスト・タウン(August Town)に現る。

1889

シェイクスピア、オーガスト・タウンでジャマイカ・バプテスト自由教会を設立。

1891

10月10日、アレクサンダー・ベドワードが神の命により聖化を遂げる。

12月22日、アレクサンダー・ベドワードがオーガスト・タウンを流れるモナ川(ホープ川)の水を薬として配り、迷える子羊たちに洗礼を施し始める。ベドワードはヒーラーとしての能力も発揮し、オーガスタウンに大勢の人々を集めた。

1892

7月23日、エチオピアでラス・タファリ・マコンネン(Tafari Makonnen Woldemikael)誕生。後の、ハイレ・セラシエ1世(Haile Selassie I)。彼がジャマイカ社会に多大なる影響を及ぼすことになろうとは、未だ誰も知らない。

1893

モナ川の水の薬効を政府が調査。調査結果の発表も、記録も残っていない。

1898

6月16日、レナード・ハウエル(Leonard Percival Howell)誕生。後にラスタファリニズムの祖となる。

1901

シェイクスピア、オーガスト・タウンで他界、享年101歳。3月20日、同地で埋葬される。シェイクスピアの意志は、アレクサンダー・ベドワードに引き継がれた。

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地震後のキングストン。 photo via wikipedia

1907

1月14日、巨大地震がキングストンを襲う。犠牲者は約800名。

地震以降、アレクサンダー・ベドワードから洗礼を受けるジャマイカ人が急増。ベドワード信奉者にとって地震は天誅だった。

1912

ハリケーンによりジャマイカ西部は甚大な被害を被る。

1914

7月、英国からマーカス・ガーヴェイ帰国。世界黒人開発協会アフリカ会連合(The Universal Negro Improvement Association and African Communities (Imperial) League、UNIA-ACL)を創設し、たったの5日間で組織を編成した。しかし、アフロ・ジャマイカンたちは、アフロとしての自己確立よりも、西洋人との同化に活路を見出していたため、自らをアフロと定義するのを拒否し、カーベイを狂人扱いした。数少ない熱烈な追従者を獲得したが、ガーヴェイは自らの思想実現を目指して渡米する。

6月、第一次世界大戦勃発。

1915

500名のジャマイカ人部隊を欧州に派兵。

1919

ガーヴェイは自らの思想を基に、アフロによるアフロのための汽船会社ブラック・スター・ライン(Black Star Line Steamship Corpolation、以下BSL)を設立し、世界中に広がる海運アフロ・ネットワーク構築を目指した。同社は2隻の旧式船舶しか所有していなかったが、ガーヴェイの信奉者たちは、いつの日かBSLの船舶でアフリカ帰還が実現する、と信じて疑わなかった。

1920

「Look to Africa, when a black king shall be crowned, for the day of deliverance is at hand」。マーカス・ガーヴェイのこの発言は、ラスタたちにとって預言となる。

「Look to Africa=アフリカを見よ」との和訳を目にするが、ガーヴェイの活動を知れば「アフリカに希望を託すんだ」「アフリカを目指せ」のどちらかがしっくりくるのではなかろうか。20世紀前半までの英語圏で、「look at」と「look to」がほぼ同義であるのなら「見よ」でもかまわないのだが…

1921

アレクサンダー・ベドワード、信奉者800人を率いてオーガスト・タウンからキングストンへ行進。参加者全員が全身白尽くめだった。行進の最中、ベドワードは逮捕され、
裁判の後、精神病院に収容される。

1925

マーカス・ガーヴェイ、郵便詐欺で米当局により逮捕、懲役2年。「経営破綻したBSLの株で儲けた」のが逮捕の理由。法廷で、彼は貧乏なビジネスマンだ、という証言は得られたが、詐欺罪を立証できるだけの証拠はなかったため、ガーヴェイの影響力拡大を懸念した米当局の陰謀ではないか、という見解もある。

1927

マーカス・ガーヴェイ、ジャマイカに強制送還。

1930

ラス・タファリ・マコンネン(Tafari Makonnen Woldemikael)、エチオピア帝国最後の皇帝に即位。ハイレ・セラシエ1世。

11月8日、アレクサンダー・ベドワード他界。

1930年代、マーカス・ガーヴェイはキングストンのワーキング・クラス向けにカルチャー・センターを開設し、各種芸術活動を奨励し、エーデルワイス・パークではダンス・イヴェントを頻繁に開催した。ジャマイカ・カルチャー・ヒストリーに刻まれた名ダンサーたちが、ガーヴェイのイヴェントから誕生している。

同時期に、ラスタファリアニズムも動き出す。レナード・ハウエルを始め、数人の牧師それぞれがブラック・リヴァイヴァリル派の宗教観、ガーヴェニズム、ベドワード思想を踏まえ、ラスタファリアニズムを彫琢した。

1933

キングストンの洪水。

1934

首都キングストンで、ラスタファリ運動が確固たる地盤を固める。1920年代に始まった砂糖産業衰退により、労働者の都市部流入に加え、世界恐慌の影響でジャマイカ経済は不況に陥っていため、ラスタファリニズムは思わぬ勢いで労働者たちの支持を獲たが、運動の拡大を憂慮した当局により、レナード・ハウエルは逮捕された。

エチオピアでは、イタリア軍の侵攻により第二次エチオピア戦争勃発。

1936

アジスアベバ陥落。ハイレ・セラシエ1世はイギリスに亡命。

1937

ニューヨークでエチオピア世界連盟(Ethiopian World Federation)設立。

世界中のアフロにとって、ナイル文明揺籃の地、エチオピアはアフリカの象徴であった。マーカス・ガーヴェイがエチオピアに言及するさいも、ひとつの国家でなくアフリカそのものとしてのニュアンスが強かった。当時、アフリカ大陸で唯一の独立国家であったのも、アフロたちを惹きつけた要因だ。

普通選挙の実現を希求する、ジャマイカ随一の弁護士ノーマン・マンリー(Norman Washington Manley)が福祉政策を提案。

1900年代初頭、ジャマイカのバナナ産業は、バナナの病気「パナマ病」の流行により壊滅的被害を受けて、農園労働者が都市部に流入した。植民地政府は、何らかのかたちで、失業者、労働者たちを保護しなければならなかった。これと同時に、マンリーは労働者たちの芸術活動も奨励した。

1938

’30年代に入ると、世界恐慌の煽りで労働条件が悪化し続ける。ジャマイカ各地での暴動、ストライキが頻発し、この年、労働者の怒りは頂点に達した。キングストンでは特大規模の暴動が発生。激化する暴動を調停したのはノーマン・マンリー(Norman Washington Manley)。暴動鎮圧後、彼は人民国家党(People’s National Party, PNP)を結党。

エチオピア世界連盟ジャマイカ支部、発足。

1940

レナード・ハウエルがキングストンに近いセント・キャサリンのウィルダネスにラスタ・コミューン「ピナクル」を創設。ピナクルは聖地となり、不況に喘ぐジャマイカ社会のなかで、ラスタファリニズムは着実に地歩を固める。

ハウエルは、中国系商人アルバート・チャンから、駆け引きの末、値切りたおしてピナクルを購入した。チャンにとって、ピナクルはある意味、投資事業でもあった。彼は、ピナクルの農産物でかなりの利益をあげたようだ。

6月10日、マーカス・ガーヴェイ、英国滞在中に他界。彼の尽力と思想は、マルコムX、マーティン・ルーサー・キング、ラスタファリアニズム、ネイション・オブ・イスラムに引き継がれ、アフロ・レボリューションとして開花した。なかでも、初期ラスタファリアニズムの根幹でもある「アフリカ帰還」は、ガーヴェイ信奉者たちが抱いた希望の欠片をラスタたちが受け継いだ結果でもあろう。

ラスタファリアンは、ガーヴェイを「洗礼者ヨハネ」の生まれ変わりと目し、ラスタファリアニズムにおける預言者と認めている。預言者ヨハネが洗礼を授けたのは、エチオピア最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世、ラス・タファリ・マコンネンだった。

1941

7月、警察によるピナクル破壊。ラスタ70名が逮捕され、28名が収監。レナード・ハウエルは奇跡的に逮捕を免れラスタたちの尊敬を集めるも、のちに逮捕され、懲役2年を課された。

1942

ボーキサイトが発見される。以降、ボーキサイト生産はジャマイカの基幹産業となる。

1943

1938年、キングストンの暴動を扇動したゲトーの高利貸、アレクサンダー・ブスタマンテ(Sir William Alexander Clarke Bustamante)はイギリス政府に拘束されていたが、1942年、釈放されたのちジャマイカ労働党(Jamaican Labour Party, JLP)を結党。社会主義色の強いPNPを牽制すべくイギリス政府がブスタマンテにJLPを結党させた、との見解もあり。何にせよ、これ以来、PNP派市民とJLP派市民の抗争が激化し、組織的暴力が政争のツールになる。以降、選挙のたびに、労働組合、ギャング、不良、サウンド・システム、一般人を巻き込み、罵る、殴る、蹴る、投石、投瓶、棒打、銃撃、破壊とあらゆる手が尽くされる。まさに「選挙戦」だ。

二大政党の個性を安直に表現すると、PNPには社会主義的傾向、JNPには資本主義的傾向があった。冷戦終結まで、ジャマイカの政策は右往左往せざるを得なかった。

1944

普通選挙による議会設置。11月には総選挙が実施され、国民の31%が投票した結果、32議席中、JLPが22議席、PNPが5議席を獲得した結果、2大政党制が確立。

1949

12月、総選挙。32議席中、JLP17議席、PNP13議席を獲得。

1950

ジャマイカ初の民営ラジオ局Real Jamaica Radio(RJR)がキングストンで開設。

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ハリケーン・チャーリーの経路. image via wikipedia

1951

ハリケーン・チャーリーがジャマイカ横断し、全島が甚大な被害を受ける。これを機に、ジャマイカの生活環境改善が始まる。

1953

レナード・ハウエルによって組織されたコミューン「ピナクル」が再び発見される。このコミュニティで生活するラスタの頭髪はドレッドだった。

ジャマイカ労働党(JLP)のアレクサンダー・ブスタマンテ、首相に就任。

1954

ピナクルに警察の捜査がおよび、ラスタ163名が逮捕されたが収監は免れた。ラスタたちはピナクルへの帰還は許されず、キングストンのゲトー「バック・O・ウォール」「シャンティ・タウン」に辿り着く。ラスタファリニズムがゲトーに帰還した。

1955

1月、総選挙。32議席中、PNP18議席、JLPが14議席を獲得。人民国家党(PNP)が与党の座を奪取。ジャマイカ独立を掲げたPNPにジャマイカ国民が賛同した結果だ。

1957

ジャマイカ自治政府が認められる。

世界有数のボーキサイト生産国に。この時代、全世界のボーキサイト生産量の約25%をジャマイカが占めていた。

1958

10の英領からなる西インド連邦成立。西インド連邦運営の脆弱さが原因で、ジャマイカはトリニダード・トバゴと対立を深めた。

後のジャマイカ首相、エドワード・シアガがレコード・レーベール「West Indies Records Limited」を設立し、ジャマイカ人アーティストの音源リリースを開始。音楽業界に関わる以前のシアガは文化人類学者であった。

EWFメンバーのクローディアス・ヘンリー(Claudius Henry)牧師がアフリカ改革派教会を開設。

ラスタがジャマイカ全土からバック・オー・ウォールに集い大規模なナイヤビンギが催された。

1959

7月、総選挙。45議席中、PNP29議席、JLPが16議席を獲得。

10月、アフリカ帰還を目指すラスタとEWF会員数百名がロザリー・アヴェニューに集結。帰還は叶わず。帰還を切望するアフロを扇動したヘンリー牧師は数日後に逮捕されたが、すぐに釈放。罰金100ポンドと謹慎1年を課されただけであった。

1960

ヘンリー牧師の息子ロナルド・ヘンリー(Ronald Henry)がラスタ武装化を進めている、との情報が警察に伝わる。警察とイギリス軍からなる部隊が武装ラスタと衝突。イギリス兵2名が犠牲になり武装ラスタが逃亡すると、ジャマイカ政府は非常事態宣言を布告した。最終的には、ロナルド・ヘンリーとラスタ4名が処刑、3名が射殺され事態は収束。

1961

9月、住民投票の結果、ジャマイカは西インド連邦を脱退。

ジャマイカ中央銀行(Bank of Jamaica)設立。ジャマイカ経済は新たな局面を迎える。

1962

4月10日、総選挙。7月、総選挙。45議席中、JLP26議席、PNP19議席を獲得。

8月6日、ジャマイカ独立。

ジャマイカ国旗

*新情報、事実誤認が判明次第、随時更新させていただきます。