ギュウギュウの朝の電車。またまた隣のかたのスマホが目に入ってきました。神父ゲイブリエル登場のシーン。〈ウォーキング・デッド:シーズン5〉ですね。これから、あんなこと、こんなこと起こるんですよ。もうシッチャカメッチャカなんですよ。シーズン9の撮影も始まっているようですから、途中で脱落しませんように。リックとダリルの交代劇ってホントでしょうか。

日々の生活の中で、私たちはたくさんの人たちとすれ違います。でもそんなすれ違った人たちの人生や生活を知る術なんて到底ありません。でも私も、あなたも、すれ違った人たちも、毎日を毎日過ごしています。これまでの毎日、そしてこれからの毎日。なにがあったのかな。なにが起るのかな。なにをしようとしているのかな。…気になりません?そんなすれ違った人たちにお話を聞いて参ります。

守野喜晶(もりの よしあき)さん 40歳:庭師 

守野さんは、庭師さんなんですね!

はい。造園業なのですが、いわゆる植木屋です。

かっこいい! ご自身でやられているんですか?

そうです。自営というか、フリーランスの植木屋です。

イメージとしては、サザエさんちみたいなお宅でチョキチョキするような。

もちろん、そのような個人のお客様もいらっしゃいますけど、そういった方々は長く土地を持っていらして、ずっと同じ植木屋に依頼されている場合が多いので、あらたに参入するのは本当に難しいんです。ですから私の場合、ハウスメーカーさんからのお仕事も多いですね。

タマホームとか?

うちは、住友林業さんからが多いです。

住友林業でお家を建てられた方のお庭を担当されると?

はい。

今日もお仕事だったのですか?

ええ。大事な木の移植をやりました。

木の移植? どんな感じなのですか?

お客様に思い入れがあるようで、槇の木(イヌマキ)を動かしました。

どちらからどちらに?

旧宅の庭から、ぐるっと回った新宅に動かしました。でもいろいろトラブルがありまして。

トラブルですか?

はい。配管が通っていたので入らなかったんです。ですから、また水道屋さんを呼びました。依頼を受けて現場に行って、「いざ!」となっても「出来ないじゃん」とか結構あるんですよ。「話が違う」とか(笑)。

そうなっちゃった場合、すべての工程がズレちゃいますよね?

そうですね。でも今日はなんとか大丈夫でした。

槇の木でしたっけ? めちゃくちゃデカいんですか?

いえ、2トンのクレーンで釣れるくらい。男が3人いれば持ち上がりますよ。300キロくらいですから、そうでもないですね。

そうでもなくないですよ(笑)。

若いときは、1トンを6人とかで引きずったりしていましたよ。

ワールドストロンゲストマンに出られるんじゃないですか! ちなみに地面はショベルとかで掘るんですか?

はい。掘り上げたあと、根っこを丸くします。これって日本だけの文化なんですよ。

麻で包んでいるようなヤツですか?

そうです。〈根巻き〉っていうんですけど、海外から勉強しに来た人たちも、この方法にはびっくりしています。

その根巻きには、どんな効果があるんでしょう?

木を植えるときに、たくさん水をあげて活着させる〈水決め〉っていうのがありまして、『雨降って地固まる…』じゃないですけど、水でドロドロにしたあとに水が抜けると、空気も抜けて、しっかりと根が張る段階が作れるんです。その段階に根っこが巻いてあると、その後の作業もやりやすくなりますし、安定しやすくなるんです。

〈剪定〉っていうのもありますよね? あれはチョキチョキと整えるヤツですか?

はい。我々がやっている剪定は、街路樹でやるようなものではなく、植えた木を10年、20年と、大きさが変わらないように維持するものです。1年に1、2回呼んでいただくので、お金はかかるんですけど。

なるほどー。ちなみに植木屋さんになるには、資格が必要なんですか?

特別に必要ありません。一応、国家資格で、造園技能士とか、造園施工管理技士施工管理というのがあるんですけど、持ってなくても特に困りません。僕はふたつとも持っていませんよ。

じゃあ「植木屋さんになりたい!」と思ったら?

明日から3年ないし、5年もやればなれるでしょう。ミュージシャンやバンドと一緒ですよ。明日から「私は歌手です」っていえば歌手なので。

お! うまいこといますね!! 守野さんは、どうして植木屋さんになろうと決めたのですか?

僕もバンドをやっていたんです。バンドだけじゃ食えないから、昼間に働いて、夜が空く仕事を考えたら、植木屋じゃないかと。バンドがダメになったときにもちょうどいいんじゃないかと考えていました。でも入った会社が、公共事業とかもやっていたので、想いとは真逆で本当に忙しかったんですけど(笑)。

それがおいくつのときですか?

19歳ですね。給料は良かったんですけど、本当に残業ばかりで。公園の工事が3本入っていたら、それ3人で回すような感じで、通常でも朝8時から夜10時頃まで仕事をしていました。

バンドの時間もなくなっちゃいますよね?

なんとか火曜と金曜にバンド練習をしながら、1、2年くらいは、このスタイルでやっていたんですけど、やっぱりちゃんとバンドをやりたくなったんです。ちょうどその頃は、個人の職人さんたちとも知り合いになっていまして、「うちらが仕事を教えていくから、一緒に回していけばいいんじゃないか?」って、お言葉をいただいたんです。それで会社を辞めて独立し、職人をやりながらバンドもやれるようになったんです。

では、そのバンド生活も辞めて、現在の植木屋さんでやっていこうと決めたのは、いつ頃ですか?

それもあやふやなんですね(笑)。28歳くらいのときに、ずっと続けていたバンドは辞めたんですけど、そのまま今に至っている感じなんですよね。

じゃあ、今もバンドマンという気持ちがあると?

いえ、そうでもありません(笑)。僕自身、ライブ演奏とかに興味がなくなってしまったのもありますし、30歳のときに子供ができましたので。まぁ、でも区切りのないまま、現在になっております。

守野さんは、どんなバンドをやられていたんですか? 担当は?

ドラムです。本格的に始めたのは高2のときなんですけど、2個上の先輩に誘われてFEVERSっていうバンドに加入しました。ライブは、三軒茶屋のHEAVEN’S DOORが多かったですね。

ああ、私も年越しライブとか行っていました。サーファーズ・オブ・ロマンチカが出ていた気がする。

初めてライブをやった対バンが、BEYONDS にいた岡崎善郎くんのPEALOUTと中村修一くんのTABLEでした。

おおー。

あと今でも自慢なんですけど、最後の時期のNUKEY PIKESと結構対バンしていたんですよ。

おおー。今日は、バンバン出てきそうですね!

その後、19歳くらいのときにFEVERSを辞めたんですけど、当時AIR JAMが出てきたくらいだったので、当時慕っていたGRUBBYの村松ってお兄さんが、いろんな人を紹介してくれたんです。WRENCHだったり、ハイスタの難波くんだったり。

出ますねぇ!! 

その後は、COCOBATやMEAT EATERSってバンドを手伝ったり、レイヴ系のバンドに参加したりしていたのですが、19歳のときに、BEAUTIFUL ONEっていうバンドを始めました。まぁ、それは鳴かず飛ばずでしたが。

当時は、どんなバンドと対バンしていましたか? もっとください!!

SLIGHT SLAPPERSとかECHOとかでしょうか。

スラスラ! 横須賀かぼちゃ屋!! 

その後、僕は練馬出身なんですけど、地元中学の先輩のバンドから、また誘われたんです。「ドラムがいないから、手伝ってくれないか?」って。当時は携帯もありませんでしたから、うちに電話がかかってきましたね。そのバンドが1番長かったです。ACID HEAD SOME RISEっていうんですけど、いわゆるミクスチャー系のバンドです。RIZEとか宇頭巻とやっていました。あと、自分たちで〈バスタラフェスタ〉っていうイベントもやっていたので、GARLIC BOYSやspanam、UP HOLDなど、普段はあまり絡まないバンドとも共演しましたね。それが2000年くらいでしょうか。

本当にご馳走様でした!! そして同時進行で植木屋さんも?

はい。もう個人でやっていたので、ツアーにも出やすくなっていました。仕事をくれる親方も「バンドがあるんだろ?」みたいな感じだったので、支障はありませんでしたね。

ドラムは、いつから始めていたんですか?

14歳のときです。練馬の児童館にドラムがあって、そこの人が教えてくれたんですよ。それまでドラムを叩いているところなんて見たことなかったので、ずっとハイハットを左手で、スネアを右手で叩いてました(笑)。そのうち、皆がクロスをしているのを見て驚きましたね(笑)。

覚えたての頃は、どんな音楽をやっていたんですか?

SEX PISTOLSです。簡単だって理由で(笑)。それまではユニコーンが好きだったんです。そしたら雑誌かなんかで、影響を受けたバンドとして、PISTOLSがあがっていたんですね。あの人たち、MILKBOYとかも着ていましたから。

ユニコーンとPISTOLSの関係、初めて知りました。さて、守野さんはご出身も練馬なんですか?

生まれは三茶で、親父の仕事の都合で京都に移り、小3からは千葉の松戸です。

あら、もしかして転勤族ですか?

そうですね。親父は三菱電機の人間だったんで。Appleの黎明期からAppleの製品を買っているような人でした。

いつから練馬に住んだのですか?

松戸に移ってからすぐです。社宅に住んでいたんですけど、車がないと生活できないので、半年くらい経ってから練馬に引っ越したんですよ。僕が3年生から4年生に上がるタイミングで、練馬の光が丘に引っ越しました。そこからずっと練馬です。

光が丘って、団地がいっぱいあったイメージなのですが。

そうですね。今は昔のイメージと、ちょっと変わったかもしれないですが、僕も団地住まいでした。ちなみに今も住んでいますよ。13階に両親、6階がうちです。

やっぱり当時の光が丘って、子供が多かったんじゃないですか?

はい。とんでもなかったです。小学校だけで10校あったんですから。

ええっ! 10校も!!

光が丘第一小学校から、第十小学校まであったんですよ。

守野さんの小学校は、NO.いくつだったんですか?

僕は第五小学校です。今はなくなって、4つくらいになっちゃったのかな。

じゃあ、団地の中に小学校の友達がいっぱいいたでしょう? どんなことをして遊んでいました? エレベーター全押ししたり?

基本ロクなことはしていませんね。光が丘公園に池があるんですけど、釣りをしちゃいけないのに釣ったり、クワガタを採りに行ったり、畑に忍び込んで作物を獲ったり。

クワガタはOKですね! 中学校もいっぱいあったんですか?

その頃は4校です。

部活動はしていました?

スポーツも苦手だったし、先輩後輩の関係も面倒臭そうだったので、全然やりたくなかったんですけど、強制だったので、はじめは吹奏楽に入りました。でもそこは、部活をやりたくないヤツが集まる部なんです。顧問の音楽の先生は女性でしたし、部員も女の子が多かったから、行かなくても怒られなかった。

じゃあ、吹奏楽部に在籍はしていたけど、まったく参加しなかったと?

はい。でもそうこうしていると、今度は熱い先生が登場するわけです。「部活に行かないという選択肢はオマエらにない!」って。結局、その先生が顧問をしているバトミントン部に引っ張られました。まぁ、なんとなく卒業までやっていましたね。

そして高校時代を迎えますが、こちらも練馬ですか?

いえ、高校は杉並の都立西高に行きました。

超頭良い校じゃないですか!!

当時の倍率が0.92倍だったんですよ。ちょうど学区制度があやふやになり、倍率が1倍切っていたので入れたんです。

いやいや、中学のときちゃんと勉強していたからですよ。

中学校の勉強が出来ただけです。入ったら全然でした。バケモノみたいなヤツばかり。勉強しなくても東大に入っちゃうようなヤツがたくさんいましたから。

そして、ドラマー街道に乗ったんですよね?

はい。ある程度は叩けるようになっていまして、先輩たちの卒業コンサートとかに引っ張り出されていたんです。その先輩方が大学に行って、僕を紹介してくれたりしながら、人脈が広がった感じですね。

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