写真家、名越啓介とキンシャサ・ミュージックで世界的な人気を誇るパパ・ウェンバ&ビバ・ラ・ムジカのメンバーである奥村恵子が、2016年11月、コンゴ民主共和国の首都であるキンシャサに約3週間滞在。プロレス、サプール、黒魔術、食など、日本とは、まるで異なる怒涛の文化を直撃取材した。

このプロジェクトについて、動き出したのは2015年の12月まで遡る。名越啓介と写真集『Familia 保見団地』の編集に取り掛かる以前からスタートしている。きっかけはプロレスだった。名越は「コンゴにヤバいプロレスがあるんですよ」と嬉しそうだった。

隣国にあるコンゴ共和国のサプールが、NHKのドキュメンタリー番組での放映、ダニエーレ・タマーニの写真集発売、都内百貨店での写真展開催など、盛り上がりをみせていた。コンゴ共和国とコンゴ民主共和国の違いも大して理解していなかったが、名越のいう〈ヤバいプロレス〉を画像検索したのを思い出す。ヒットした数少ない画像は、1枚1枚理解し難い〈パンチ〉を繰り出しており、なんとかプロジェクトにすべく尽力した。

のちに知人を通じてコンゴ民主共和国、そしてキンシャサ・ミュージックに精通する奥村恵子と知り合い、晴れて取材が実現した。

第一回目は、名越啓介が撮影したキンシャサの写真とともに、コンゴ民主共和国が歩んできた歴史や政治情勢を概観する。それを把握したうえで、次回からは、首都キンシャサのカオスに踏み込みたい。

コンゴ民主共和国は、西にコンゴ共和国、北に中央アフリカ、北東に南スーダン、東には上からウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、タンザニア、南東にザンビア、南西にアンゴラ、9カ国が隣接するアフリカ大陸のほぼ中央に位置する国である。大航海時代、ポルトガル人がこの地を発見して以来、その歴史は、苦難の歴史でもある。

1885年、ベルギー国王のレオポルド2世が、当時のコンゴ自由国を私有地として支配する。個人が、国家を植民地化した、極めて異例の侵略であった。レオポルド2世は、人口が半減してしまうほど、歯向かう勢力を徹底的に弾圧し、容赦ない奴隷政策も実施した。この被害がヨーロッパ各地へ知れ渡ると、レオポルド2世への批判が集中し、支配から20年あまり経った1908年、コンゴは他の多くの後進国と同様に、特定の〈国家〉、つまりベルギーの植民地として統治されるようになる。しかし、支配権が国王から国家へと移行しようと、コンゴ国民の苦しみは変わらず続いた。

この状況を打開するチャンスが訪れたのが、植民地支配から脱却し、国名をコンゴ共和国に改めた1960年であった。晴れて独立したにもかかわらず、コンゴに平和は訪れない。国内情勢が不安定なままだったのだ。

まず、ルムンバ(Parice Emery Lumumba)が首相に選出されるが、コンゴの資源を巡る争いのため、翌年、暗殺されてしまう。1964年、西に隣接するコンゴ共和国と同名のため、コンゴ民主共和国へと国名を変更。

1965年アメリカの支援を受けるモブツ・セセ・セコ(Mobutu Sese Seko)が大統領に就任し、1997年まで約30年に渡り、独裁政権を敷く。1971年、コンゴ民主共和国から〈ザイール共和国〉へと再び国名を変更。独裁、横領などを繰り返したモブツは、現在まで続く混乱を招いた張本人にもかかわらず、米国の支援もあり、長期にわたって政権を維持した。しかし、冷戦の終結により、同国は米国の支援を失った。すると、モブツ政権打倒をひとつの命題に掲げた第一次コンゴ戦争が始まる。第二次世界大戦以降、最も多くの死者を数えた紛争が始まったのだ。

第一次コンゴ戦争には、コンゴが抱える人種問題も影響している。国内だけで300から400ものバンドゥー語族がおり、それに伴う言語がある。そして、250もの民族が同居している。したがって、植民地時代から続く虐げられた環境や、世界有数の貧国である経済状況も踏まえると、部族、民族による内紛は、いつ起きても不思議はなかった。それが隣国の政情不安から顕在化した。1994年に起きたルワンダのジェノサイドだ。ブルンジの大統領であったフツ族のハビャリマナ大統領(Juvenal Habyarimana)が搭乗した飛行機が、ルワンダの首都キガリ上空で迎撃される。その報復に、フツ族は約100万人のツチ族などを殺害。このルワンダ虐殺をキッカケに、ツチ族からの報復を恐れ、加害者であるフツ族が隣接する国々、特にコンゴに逃れた。85万ものフツ族がコンゴ東部に流れ込んだため、コンゴ内のフツ族とツチ族を巻き込んで、民族紛争が激化する。そして、1996年コンゴ反政府勢力〈コンゴ・ザイール解放民主勢力連合〉が結成され、第一次コンゴ戦争へと発展。これを指揮したのがツチ族のローラン・カビラ(Laurent Kabila)、そして、彼を支援したのがルワンダ(ツチ族による新政権)、ウガンダであった。当初、傍観していたアンゴラも参戦し、モブツ政権打倒に動き出す。これにより30年続いたモブツ独裁政権に終止符が打たれ、コンゴ・ザイール解放民主勢力連合を指揮していたローラン・カビラ大統領が誕生した。

また、この戦争は、コンゴの豊富な資源を巡る争いでもあった。元来、コンゴは豊富な資源を有する国である。ベルギー植民地時代は、欧州で自転車産業が急成長を遂げており、世界最大規模の生ゴム産地だったコンゴが標的となった。同時に、象牙、ダイヤモンド、金なども採れる。その後、モブツ政権時代には、米軍が戦闘機に利用するためのコバルトが狙われた。コバルトはソ連とコンゴでしか採れなかったため、冷戦期の米国にとって、コンゴは重要な同盟国になった。冷戦が終結すると、コルタンという黒い石に注目が集まる。コルタンは携帯電話やパソコンの部品の原材料であり、世界の供給量の約80%がコンゴで採掘される。全世界がハイテクバブルに沸くなか、この鉱石の価格が上昇し、多くの国や企業が、様々なかたちでコンゴ侵略を始めた。他にもスズ石や鉄マンガン重石などの鉱石も採れるので、数百兆、数千兆円ともいわれる豊富な資源を有する。しかし、それが故に、絶え間ない紛争が起きてしまうのだ。

これほど豊富な資源があるのに、なぜ最貧国なのか、と疑問も湧くだろう。しかし、政府関係者をはじめ、一部の権力者が資源が生む利益を独占したため、一般市民は決して潤わない。多くの国民は安定した職にも就けず、貧しいにもかかわらず、物価は富裕層の経済事情に合わせて高騰する。国民は絶望を感じざるを得ないだろう。また、他の周辺諸国、ルワンダとウガンダは、モブツ政権打倒した暁には、鉱石が生む利益を享受しようと画策していた。このように、豊富な資源を保有していたが故に、コンゴ国民は感情を害され、周辺国の脅威にさらされ、それが重なり第一次コンゴ戦争へと繋がった。

第一次コンゴ戦争後、ローラン・カビラ新政権は、1997年国名をザイール共和国から再びコンゴ民主共和国へと戻す。しかし、これで戦争が終わったわけではなかった。翌年、1998年に第二次コンゴ戦争が勃発する。第二次コンゴ戦争では、第一次コンゴ戦争の際に同盟国だったルワンダ、ウガンダと対立する。ローラン・カビラ政権が、ルワンダ大虐殺などでコンゴへ逃れているルワンダ難民に対し、何の政策も打ち出さず、さらには、豊富な資源を分配できなかったのが原因だった。ジンバブエ、アンゴラ、ナミビア、スーダン、チャド、ブルンジが、ローラン・カビラ側に付くことで、中央アフリカ全体を巻き込んだ紛争となった。一時はルワンダ、ウガンダ連合が、コンゴの中央部まで勢力を拡大。2001年にはローラン・カビラ大統領が射殺されたが、明確な決着がつかないまま、その息子ジョセフ・カビラによる暫定政権が樹立された2003年、戦争は終結する。

しかし、名目上の終戦であっただけに、各地の紛争が収まるはずもなく、特に豊富な資源が採れる東部を中心に、現在まで様々な争いが絶えない。10年以上続くこのコンゴの紛争は、第二次世界大戦以降、最多の死者を数える最悪の結果を招いた。同国の鉱山資源のほとんどが採れるコンゴ東部の人口増加はとどまらず、難民や諸部族が入り乱れ、混乱が続いている。そのため、東部の住民は安定した職と平穏を求め、西部にある首都キンシャサを目指す。

コンゴ民主共和国の混乱は日本にも届いている。名越と奥村がコンゴ取材に向かう直前の2016年12月1日、コンゴ民主共和国への渡航者、及び滞在者に対して注意を促す声明が、ジョセフ・カビラ大統領の任期満了に伴う暴動発生を危惧した外務省より発表された。第二次コンゴ戦争中、父、ローラン・カビラ暗殺により、相続さながら大統領に就任したジョセフ・カビラは、06年、11年の選挙で勝利し現在に至るのだが、コンゴ民主共和国の憲法では3選目の出馬が禁じられている。その期限が切れる日が、2016年12月19日だった。同年9月19日は次期大統領選挙の公示期限日だったが、結局、この日までに選挙日が設定されず、この日に暴動が起きている。そのため、12月19日周辺でも暴動が起きるのは明らかであり、外務省は、それに対する注意喚起を促したのだ。

コンゴ民主共和国が歩んだ歴史と政治情勢を概観したが、東部から逃れてくる人々も入り乱れる首都キンシャサでは、どのような事態が起きているのか? 第二回〈SPIRIT of CONGO ー プロレス、黒魔術、サプール ー 02「金をくれ!!」キンシャサ現地レポート〉では、現地を取材した名越啓介の写真と奥村恵子の報告を紹介する。